見出し画像

ハイドンが描く、昇り詰めるグルーブ感

Hob1:104の第1楽章展開部の最後の9つの小節には、その昂揚する追い上げの凄まじさを見る。だが、このグルーブを実現出来る演奏をするには、その「道筋」を知らなければならない。

そもそも、このallegro の主題の基本は2つの小節のアップとダウンの繋がりで出来ている。第1主題はこの2つ小節セットを分母とする4拍子で出来ている。この基本の呼吸のあり方が見えないと、このallegro は軽薄なものになってしまう。そして、展開部における「小節の3拍子」の挿入を見落としてしまうだろう。この「3拍子」が組み込まれることで、展開部の怒涛の昂揚は緊張感のあるものになっている。このような仕掛けはベートーヴェンop67 の第1楽章における「小節の2拍子」の挿入と同じように、作品を引き締める効果を発揮する。
その組み立てが見えていないから、「ハイドンだから」の「軽さ」という洗脳から逃れられないのだ。

さて、この展開部最後の8小節の骨組みをどう捉えるのかに演奏者のセンスが試されている。このクライマックスは確かに、この2つの小節のセットを分母とする「5拍子」によって築かれている、とも言える。
だが、それだけではないのだ。ここに巧妙な心理戦が隠されているのだ。

ここまで、聞き手は、この2つの小節のアップとダウンの組み合わせを聞かされて来た。それに慣らされると、アップのあとにはダウンという「オチ」が来るパターンにハマる。だが、このクライマックスではそのパターンをわざと裏切ることで聞き手を引き付け続ける。最後の9小節がなぜあそこまで切迫した緊張感を駆り立てられるのか、はパターンの「裏切り」の効果のためだ。

184小節めに足をつけると、そこを起点としてフェルマータのある192小節目まで足を下ろさないのだ。つまり、オチを期待する聞き手に「待て」をし続ける。そうやって煽って期待感を高める。

それだけ煽っておいて、フェルマータでお茶を濁す。何事もなかったかのように再現部が静かに始まる…

この曲のすごいところはこういうところだ。そして、それはハイドン的な、後に「古典派」と呼ばれるスタイルの限界ギリギリというところでもある。ベートーヴェンやシューマンなら、ここで輝かしいほどの再現部に突入するのだろうけど、ハイドンはそこで敢えて一歩引くのだ。しかも、その場面転換を茶目っ気たっぷりに。

では、このフェルマータまでの過程はどうなっているのかといえば、「小節の3拍子」を分母にした「大きな3拍子」でできている。それがこのグルーブ感の秘密だ。

184 185 186|187 188 189 |190 191 192 •)

特に185小節めから187小節めへの移行がポイントだ。この3つの小節の関係をよみ間違えるとこの箇所に起こる昂揚感の仕組みは台無しになる。

この9小節に及ぶ浮上の過程はこのような仕組みで成り立っている。192小節めのフェルマータに向かって急な坂道を全力で駆け上がっていく。その動的な流れにフェルマータが急ブレーキをかける。というよりも運動がそのフェルマータという壁に衝突する勢いだ。ここでテンポを緩めてしまうのは「残念な大人の安全運転」でしかない。そういう「よゐこ」でいてはドラマにはならないのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?