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「常識」よりも「生命感」の方を大事にしたい

K.543の序奏は2/2dagioで書かれている。だが、この序奏と主部3/4allegroとは拍節的な関係で結ばれている。この緩急対比は序奏の2分音符が主部の小節ひとつ分にあたる2:1の関係になっている。それは序奏最後の小節を見れば明らかだろう。指揮者なしに緩急の切り替えが可能な作りになっているのだ。

この比率関係はHob1:101や103のそれと比べるとよく似ている。

だが、そういう楽譜の事実と慣習的な演奏テンポは乖離している。adagioが遅すぎるのだ。これも20世紀のレコード文化の負の遺産である。

さて、このadagioは二つの小節を分母とする音楽で始まるが、この分母自体は2分音符の4拍子とも言える。この「二つの小節」を分母をセットとして考えると行進曲のようなリズム感が楽譜から浮かび上がってくる。2小節めの2拍目裏の連符が、3小節のアウフタクトとして運動として生きたものとして機能しているのが分かる。また、9小節め以降の付点リズムもバロック音楽っぽい生きた脈動として機能する。

このような事実に出会うにつけ、音楽は「形」で演奏するべきだという確信を得るのだ。

テンポ感は音符の速さではない。小節の運動の使い方なのだということが分かると「慣習」から自由になれる。特にadagio やandante はその音楽の運動性を「生かす」テンポを探ることから考えられるようになるのだ。交通ルールのようなスピード制限みたいなものとは違うのだ。メトロノームの普及によってこのテンポ感は狂ってしまったと言っていいだろう。テンポ感に関してのみは意外にも楽譜の事実に照らしながらも「感覚的」なものでもあるのだ。そこにはリズムを「生かす」という感覚的なものが優先される。

K.543のadagioはその感覚的な問題よりもallegroとの対比関係からテンポの範囲は限られるヒントでもあった。

感覚的なものがヒントになる例はK.425のadagioだろう。
このK.425の冒頭の四分音符はがどこに向かっているのか。冒頭の動きの帰着点が見えないと運動性は見えてこない。
結論を言えば、この運動は3小節に帰着する。そしてその流れを作る骨組みは

0 1 2 | 3

という小節の三拍子である。この骨格がこのadagioのテンポ感のヒントになる。3小節めに落ちるこの「形」を明確にする動きがテンポの範囲をおよそ見せてくるのだ。つまり、響きの問題ではない。演奏において最も大事にすることは運動性を活かすこと。音符の速さからの発想では全体像は見えてこないのだ。

この問題について、典型例はベートーヴェンop125の終結部におけるpresto→maestoso →prestissimoの交代だろう。音符の速さを基準に音楽を捉えてしまうとこの緩急対比は見えてこない。小節の使い方の問題とそれによる運動性の違いで勝負しなければならないのだ。後期ロマン派的なテンポ対比とは発想が違うことについて「諦め」がなくてはならないのだ。

常識と事実の違いという客観的な問題と、リズムを活かすという感覚的な問題との両者が、クラシック音楽の演奏を考える上で必要なのだというのは興味深い。

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