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ワルツの刻みよりも大事なこと

「王宮の花火の音楽」、その序曲の冒頭は低音群のD音の2分音符から始まる。輝かしいあのメロディは2/2の「裏拍」から始まっている。

楽譜への理解が足りないと、感覚的にメロディは1拍目から始まっている呼吸になりがちだ。感覚的な失敗の典型例だろう。

冒頭の2分音符は呼吸を合わせるためのきっかけであり、それによって、歌い出しの前に一歩踏み込むことでアンサンブルのタイミングを図っている。

この開始の2分音符は音楽に先行して動いていく、この音楽の基盤であり、その踏み込みの反作用によってメロディが歌い出される。

構造的に見ればこの音楽は2分音符の4拍子が分母であり、

①1 2 ②3 4 ③5 6 ④7 8 ⑤9 10 ⑥11 12 | ①13

という大きな6拍子で歌われている。この拍節に乗って13小節に帰着することがわかると1小節めの最初の2分音符の意味と役割が納得できるだろう。

この曲は人数の多い屋外での演奏を想定しているので、多分その冒頭の2分音符が「合図」として必要だったのだろう。だが、多くの一般的ない音楽にはこのような合図は音符化されていることは多くはない。

例えばK.550の第4楽章2/2allegro assaiを例としてみる。1小節めのアウフタクトから始まるこの主題だが、その四分音符を執るためには楽譜には書かれていない0小節の頭を叩くことが必要になる。指揮者と演奏者はそれをきっかけに小節を分母とする4拍子のフレーズを共有認識することで演奏を成り立たせている。

また、ワルツもそのわかりやすい例となるだろう。小節の中をどう分割するのかという視点で見るからわかりにくいのだ。ワルツ伴奏の四分音符をどう刻むのかの問題よりもまずはメロディがどのように乗っているのかが見えなくてはならない。

例えば「春の声」の場合、4小節の導入を経て、5小節めからワルツの刻みが始まり、9小節めアウフタクトからメロディが始まる。

この5小節めからの4小節間のワルツの刻みによる前奏の存在がこの音楽が小節の4拍子であることを体感的に知らせている。問題は9小節めアウフタクトからのメロディをどう捕まえるのかである。これはダンスのホスト側にとっても大事なポイントだろう。上部のメロディだけを聴いて踊ろうとしても、それではダンスの主導権は握れない。相手をリードできないだらしないホストに成り下がる結果となる。それは「ひとつ振り」でワルツが指揮できないという惨めな指揮者も同じだろう。ダンスや音楽の主導権を握るのは結局、フレーズの初めの一歩を奪うことにある。K.550のallegro assaiの場合と同じなのだ。

つまり、導入部を聞いて5小節から踏み出そうとするのは手遅れなのだ。彼女を上手にエスコートするためには4小節目でステップを奪う必要がある。

つまり、

4 5 6 7| 8…

という小節の4拍子を想定できるかどうかなのだ。4小節目で踏み出せなくては主導権は握れないのだ。音楽がそこで若干のリタルダンドとアテンポを執るオシャレもそこに由来するノリなのだ。ここで波を掴めば9小節目の頭に順調に乗れるのだ。柔道の技をかけるのもその踏み込み先を執ることがポイントになる。相手を投げに乗せるのも、ワルツで彼女の腰を誘導するのもその一歩前に踏み込めるかにかかっている。

さて、「春の声」の場合も、ワルツがそのように始まるのだから、逆算的に見れば、その冒頭も、

0 1 2 3 | 4…

という小節の4拍子の呼吸によって支えられていることがわかる。

さて、このワルツのノリがわかったところで、例の「ンチャッんちゃッ」の刻みの問題になる。この2ndvnやvaに任させれがちなステップだが、1拍目が四分休符になっていることに注目する。これによって自動的に2拍目にはシンコペーションのアクセントがかかる。このアクセントを効かせようと前ノリの演奏をするからやや2拍目が前にズレる。

これはベートーヴェンop92のvivace のリズムが三連符支配によって狂うのと同じ原因による。それが伝統化されてしまっているのだ。

逆に言えば、ワルツの伴奏もベートーヴェンのvivace も楽譜通りに演奏したら「なんか違う」と言われてしまうかもしれない。だが、それは「解釈」の問題ではない。単純にその演奏者の音楽に対する姿勢の問題でしかない。

ベートーヴェンにおけるこのリズムの崩れをワルターは「世界的な病気」と言っているけれど、そこに陥りやすいノリがある。
ワルツの場合は、録音によって「集団催眠」によって洗脳されているようなものだ。だから「ウイーン風に」などとこの伴奏を規定的に真似するのはおかしなことだし、そのことでマウントを取るのも愚かなものだ。

まず、シンコペーションアクセントをいかに効かせるのか、そしてメロディを支える4拍子を共有できることから始めなくてはならない。結局、ノリの問題なのだ。

私たちは「自信がない」ことについてとてもミクロ的な視野を持ちやすいし、逆にその細かい点でマウントを奪わなければ気が済まない人がいる。テーブルマナーとか和音とかや英語の発音なんかはその典型だろう。SNSで炎上を煽ったり、他人の意見を求めるアンケートとかやりたがる類いも同じ。
自信がないんだろうな。でも、同類を集めるよりももっと大事なのは自分の真理を追求することなんじゃないかな。
方向性の見えていないミクロ視点は何も生み出さない。自信も持てるように自己研鑽を積むしか方法はない。

そして、
問題は本当にそこなのか?
大事なことはそれなのだろうか?を問う必要がある。「姿勢」はその後の問題だ。

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