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フェルマータの狙いと効果

フェルマータは「音を引き伸ばしで保持する」という打ち合わせ目的ではない。それは結果であり、その結果が招いた誤解や誇張でしかない。

フェルマータはよく知られているように、イタリアでは「バス停」のアイコンであり、古い時代の楽譜では「終止」を表している。

「音を引き伸ばす」という結果は、終止の時に生まれる「残響」、あるいは保存エネルギーの放出の空間なのだ。

物理の世界でいう慣性の法則に従えば、摩擦抵抗の少ない平面では、ブレーキをかけても走行してきた物体は完全に停止できない。
石に囲まれた音響環境下では放った音は残響によって保持される。

フェルマータの狙いはそこにあるのだと考える。

だが、例えばワグナーによるベートーヴェン交響曲第5番第1楽章に関するエッセイなどを見ると、フェルマータは、現代的な「誇張」された保持に読める。この辺りの時代から、そういうフェルマータのデフォルメが起こってきたのではないだろうか?

保持ではなく、エネルギー保存の法則的に考えると、フェルマータによる音の伸ばしは「減衰」的なものだと考えられる。もし、「現代的な意味でのフェルマータ」を欲するのであれば、そこにはテヌートが必要になる。
そう考えると、フェルマータもテヌートもそれぞれの目的は明確になるだろう。

20世紀のレコード文化時代に刷り込まれた常識を疑う必要がこのフェルマータにはあるのだ。

さて、そう理解した上で、ベートーヴェンop67の冒頭を見直すと、考えさせられる問題が浮かんでくる。フェルマータが「保持」ではないことを意識すれば、1小節めの位置は、拍節的アウフタクトではなくなる。
そして、2小節めや5小節めのフェルマータは減衰的な発音になる。

① 1 ②2•)③3④4  |①5•)

という大きな4拍子の構造が見えてくる。

第1主題は5小節のフェルマータの解除をきっかけによって始まる。

以前の記事でこの第1主題の提示はもやもやしている独特さがある。と、書いたが、それは間違えている。それは2ndvnの7〜9小節めのタイは、9小節めに帰着する明確な範囲を持つ発音だからだ。フェルマータのように帰着点がどこにあるのかは明確ではない発音とは異なるのだ。タイで括られていても発音はたしかに減衰する。減衰させないのならテヌートが必要になる。だが、終点がわからないフェルマータとは異なり、明確な範囲がある。つまり、そこには明確なテンポがあることを意味する。9小節めや13小節めにリズムがなくなるのは確かだが、そこには明確な帰着点が存在しなければならない。テンポは保持される。以前の記事ではそこをフェルマータ的になってしまっていたのだ。

もう一度整理すると、フェルマータは、推進力の停止と保存されたエネルギーの放出空間である。つまり、明確な帰着点を持たない減衰区間である。※だから、フェルマータの解除のための「振り直し」が必要になる。

その理解の上で、このop67や、68の冒頭を見直すと、ロマン的な解放感や陶酔感が感じられる思いがして面白い。

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