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選択の難しさと楽しみ〜D944第1楽章をどう閉じるのか?

緩急の対比の考察材料としてK.588序曲は興味深い。
2/2andanteとprestoの緩急構造でできているこの曲だが、その終結部直前で冒頭の「緩」部が再現される。だが、その緩部再現は冒頭の倍の音価て記されている。つまり、この2/2andanteと2/2prestoの関係は2:1の関係出できていることが分かる。
つまり2/2andanteの1拍(2分音符)は2/2prestoの小節ひとつ分に相当するということが分かる。andante が遅すぎると急部prestoの生命感は死んでしまう。

このことは反対に、presto が速すぎるとandante は落ち着きがなくなるとも言える。かもしれない。

だが、私たちのこの作品に対する刷り込まれたテンポ感覚を見直すチャンスになるのではないだろうか?

Hob1:103第1楽章では3/4adagioと6/8allegro con sprito の対比が見られるが、このadagioはテンポが遅すぎると第1楽章終結部における冒頭再現の際にテンポ対比の矛盾を起こすことは周知の事実だろう。「演奏の伝統」とやらがなんであれ、楽譜の3/4adagioが20世紀的な常識とは相容れないことは明白なのだ。

つまり、20世紀のレコード文化によって洗脳された演奏常識による後期ロマン派的な緩急対比と、いわゆる古典の緩急対比の感覚とはずいぶん違う。緩部は遅すぎるほど重いものではない。

そもそも、いわゆる古典派の音楽の時代からの「演奏伝統」など残っているのだろうか?演奏史を少しでも紐解けばそんなものがある訳がないことが分かる。「古典派」の作品演奏は一部の人気作品を除き時代的に断然があるからだ。ベートーヴェンop67でさえ、一時は「完全全曲」演奏さえ珍しいものだったらしい。
つまり、「常識」や「伝統」など所詮当てにならないということ。
これらの対比については楽譜からその効果という実証から考えるしかないのだ。

adagioの歩みは遅すぎない、andanteのステップは軽い。

これだけでも、例えばエロイカの第2楽章や第4楽章終結部の入り口ともなるandante のテンポ感は再考に値するだろう。

と同時に、K.588序曲のandanteとpresto が2:1であり、「太鼓連符」のadagioの小節ひとつとallegro con sprito の小節は1:1で「なければならない」のかは、考察すべき問題である。

このような問題について、K.588序曲の緩急対比問題と同様の問題を提示するのはD944第1楽章終結部だろう。

D944冒頭の2/2andanteは主部allegro ma non troppoの終結部で、やはりその倍の音価で再現される。
だが、この緩急対比を楽譜の記述通りに機械的に演奏するべきかどうかは、ブラームスop68第4楽章終結部におけるコラール再現と並んで、以前からよく議論の的になる。「好みの問題」で済ます発想から一歩踏み込んで、この問題を考えて見る必要があるのだ。

僕自身は冒頭再現の箇所で「テンポを落とす派」である。というのはこの再現部分では、6連符の拘束から解放されているからだ。6連符はこれまで執拗にこの音楽に絡んで、骨太だが確固たる推進力として機能してきた。だが、この冒頭再現では、その刻みは鳴りを潜める。この6連符進行の中止はまさに「解き放たれる」効果を生む。そこには推進力から解放されてなお慣性の法則によって前に進む物理的な表現力が要求されている。単純に遅く絶唱するのではない。そういうのは、少々思春期っぽい幼稚さがあって田舎芝居に聞こえる。だが、若干のテンポダウンは自然物理的な観察眼による芸術的な手段と言える。
だがそのテンポダウンには越えなければならない問題がある。それは最後の3小節で6連符進行が戻ってくる。その6連符でa tempoできるかどうかだ。20世紀の「巨匠」的な「名演」ではこの6連符はまるで歌舞伎の大見得斬りのような演奏がされている。だが、それはやり過ぎだろう。そういう芝居もまた楽譜の目的に反している。結局は自然なテンポ操作が可能な範囲での演奏が望まれるのだ。

演奏者としての選択の難しさと面白さはこういうところにある。部分的な好き嫌いの問題では越えられないのだ。

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