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変わり目〜ベートーヴェン交響曲第5番第1楽章

例えば、K.488のadagioの主題は形がはっきりとそこにあるので、自ずとテンポ感も見えてくる。形が見えているから語り口が分かる。少なくとも、録音に支配されてしまう前の時代の人たちにはそれが読み取れたはずだろう。残念ながら、今の人にはその読み方は難しい。先に録音があって、そのイメージで作品に入ってしまうからだ。

このadagioの語り口もテンポ感も楽譜には明確に分かるのだ。形がある、とはそういうことなのだ。

だが、ベートーヴェンop67の第1楽章で6小節めからの主題提示にはそれがないんじゃないだろうか。

もちろん、一般的な演奏では二つめのフェルマータが終わると、切迫した雰囲気で第1主題が明確に提示されていく。だが、この独特な主題提示は、わたしたちがこの主題をよく知っているからこそ、それが「第1主題」であることが見えているだけなのではないだろうか。録音のない時代の人たちにとって、あるいは初見の人にはどうなのだろう。

そう思うのは、この6小節めからの件では、明確な形で主題が提示されるのではないからだ。単に「運命の動機」を積み重ねていくものであって、結果としてメロディになっているに過ぎない。

楽譜は敢えてそういう作りで主題を提示する。敢えて輪郭を「ぼやかし」ている。記憶を忘れて楽譜だけを素直に見ると、そう見えるのだ。

その証拠に動機の積み重ねに5個めが無い。動機の積み重ねだけなのでリズムボックスもない。つまり、輪郭を与えず、明確な進行も感じさせない。主題としての明確な輪郭もテンポ感もそこにはないのだ。この主題提示の8小節間は独特だ。この後、主題はこのようには歌われない。9小節めや14小節めのようなフレーズの後ろをぼやかすようなことはしない。必ず明確なビートの上にある。ここにも作品自身の明確な差別化の意図が見て取れる。

この虚げな音楽が明確なものに変わるのが14小節め以降なのだ。その「変わり目」に気がつくと、6小節めから「第1主題」を明確にする普通の演奏はデリカシーに欠ける。楽譜で見るこの冒頭はとても繊細なのだ。そして、その変わり目から凄まじい形相になって本来のallegro con brioの本領発揮となる。

大事なのは、その虚げさと明確さの対比なのだ。そして、変わり目にこそ演奏の醍醐味がある。この呼吸を考えるだけでもワクワクしてしまう。

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