短編小説「マスクを忘れた」

「マスクを忘れた」
そのことに気づいた瞬間、全身の血の気が一気に引いた。大学の講堂へ入っていく人々が、怪訝そうに私の顔を見ている。
背中を嫌な汗が伝い、頬が真っ赤になっていくのが自分でも分かった。
「どうしよう…」
完全にやってしまった。マスクが無いと会場に入ることさえできない。どこかで買えないだろうか。いやそんな簡単に売っているモノじゃない。
焦りと後悔で頭の中がパニックになる。
その時、
「お嬢さん」
誰かが私に声をかけてきた。
振り向いた先にはニコニコと笑うお婆さんが立っていて、そのすぐそばにはお祭りで見るような露店がある。
「マスク忘れたんだろ?」
「え」
「見ればわかるよ。ほら、おいで」
お婆さんに言われるがまま露店を覗く。なんとそこにはいくつものマスクが並べられていた。
まさに危機一髪。安堵で泣きそうになる気持ちを堪え、私はマスクを選ぶ。
「毎年あんたみたいのがいるんだよ」
そう言うだけのことはあって、揃えてあるマスクは全て今日のパーティーに相応しいものばかりだった。
真っ赤でキラキラしたもの。グレーの落ち着いたトーンのもの。オシャレな模様が装飾されたモノ。
「…あれ?」
その隅にひとつ、見慣れないモノが目に入った。
「それもマスクだよ」
お婆さんは答える。
「これが、マスク?」
長方形の布にゴムが2つ付いているだけだ。これでは目まで隠れてしまう。
「目じゃなくて、口を隠すのさ」
「あ」
聞いたことがある。
私が生まれるよりずっと前のこと。
世界中で恐ろしいウィルスが流行し、誰もが口を覆うマスクをつけていたらしい。
「え、でも…」
私は首を傾げながらお婆さんに尋ねた。
「今、している人なんていないですよね?」
使わなくなったものをなぜ置いておくのですか、と。
「そうだねぇ」
お婆さんは少しだけ困ったような顔をし、そしてこう続けた。
「使わなくなったことの素晴らしさを忘れないようにするため、かな」
私は再び頭をひねる。どういうことだろうか。
「ま、若い人には分からないよね」
ははは、とお婆さんは豪快に笑った。だが、その笑顔には何かを失った人たち特有の寂しさがあるようにも思えた。
「ほら。急がないと始まっちゃうよ」
「え?あ、本当だ!」
私は慌ててマスクを買い、お店を後にする。
「大学生活、思いっきり楽しむんだよ」

お婆さんの声を背中に受け、私は仮面舞踏会へと向かった。

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