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どうしてる?「命の教育と終活」

一昨年、父が他界した。
葬儀の時、小学生だった姪っ子は、怖がって棺に近寄りたがらなかった。
実家に帰った時も、仏壇を怖がっていた。
仕事柄かな、、、ちょっと悲しくなった。
でも、そんな姪っ子を見て思い出したのが、
私も子供の頃、誰かのお葬式でお焼香を断固拒否した記憶がある。。。何が嫌だったのだろうか。

ちょっと検索してみると、お仏壇やお墓を怖がる子供は結構いるらしい。
死や幽霊なんかを連想させるのかな…それとも見慣れていないだけか。
物心ついた頃には私の家には仏壇があったし、子供の頃、夏休みの地域行事で夜のお寺で肝試しとかやってたけどな…今考えると、どうなんだろう…まぁ30年以上前の話。
うちの姪っ子たちには、そういう経験ないだろうな。
そういう経験が必要かどうかは分からない。
いや、肝試しで死生観を学べるとは思わないし、怖がるものを無理強いするのも違う。

ただ私自身は、今までの人生では得られなかったものを、父が死をもって教えてくれたようにも思っている。
人が亡くなるとは、どういうことか。
精神的にも法律的にも、いろいろ学ばせてもらった。
仕事しながら色々と調べたり手続きしたり、しんどかったというのが正直なところではあるけれど。
でも、こういう学びの機会は限られている。
しんどい思いをしながらでも、できる限り自分でやって良かったと思っている。

惜しむらくは、病院の感染症対策のため、その経験を姪っ子たちに十分にさせてあげられなかったこと。

「命の大切さ」はよく耳にするけれど、命を最も実感できるのは「死」ではないのかな…と思う。
「死」のリアルを教えられるのは、「死」の近くにいる人、死にゆく人だけではないのだろうか?
時代とともに死生観も変化するだろうし、
専門家でも何でもないので「忌むべきものだから子供たちには見せない方がいい」と言われれば反論する気もない。

終活や墓じまいといった言葉を、ここ数年よく耳にするようになった。
もちろん、悪いことだとは思わない。
自分の死について考え、身近な人と話し合っておくことは大事なことだと思う。
子供たちに迷惑をかけたくないというのも分かる。
でも終活って、自分の死についての話が多い気がする。

では、残される側にとっての死は?

これは「〇〇宗の教えでは~」といった話ではなく、いたって主観的な考えなのだけれど、
私は、お葬式やお墓、お仏壇といったものは、故人のためにではなく残された者たちのためにあると思っている。
先日、帰省した時、朝起きると仏壇の前で母が朝ご飯を供えながら、
「昨日、庭に蛇の死骸があって困ったぁ~もぅお父さんいないから大変だったよぉ~」と愚痴っていた。
いや、それ仏壇に向かって言うことでは・・・と思ったけれど、それでいいのではないかとも思った。

うちの店にも仏壇じまいの相談がよくある。
迷惑をかけたくない、娘・息子は見てくれない、
だから私が元気なうちに片づけておきたい、とか。
依頼を受ければ、仕事はする。
でも必ず伝える。
「ご家族でよく話し合ってください。
親の想いと子供の想いは、また違ったりしますよ」と。
人ぞれぞれ、いろいろな事情を抱えているだろうから一概には言えないだろうけど。
「迷惑をかけたくないから全部決めておく」のではなく、よく話をしてほしいと思う。



いろいろ書いたけれど、
やっぱり私としては、姪っ子たちにはお墓やお仏壇を怖がらずに手を合わせてほしい。
私にできるのは、珠数つなぎ。

本日の珠数つなぎ

今日は海の日なので仕事は、お休み。

もともと姉のためにつくった浄土真宗用の珠数を15年ほど前に、略式の珠数につくりかえて、母と姉が使っていた。

今度は、これをもう少し可愛くつくりかえて二人の姪っ子たちに。
余った珠で、おまけのブレスレット付き。

色は姪っ子たちの好みで。
喜んでくれると良いけれど…おまけの方を喜びそう。

仕事でも、本式の珠数を略式の珠数につくりかえてほしい、
使わなくなった珠数をブレスレットにしてほしい、といった依頼はよくある。
対応の仕方は各店それぞれだと思うけれど、興味があれば珠数屋さん、仏具屋さんに相談してみると良いと思う。


最後まで、ありがとうございます。
👋また明日。

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