自分のことを考えてみよう② -被害妄想か加害妄想か-

今日も自分のことを考えてみよう。明日やめてもいい。でも今日は自分のことを考えてみよう。

今日考えるのは自分が外界に対する時のこと。外界と接し、外界に対して自分を表すとき、私は嘘をつく。つきたいとかつきたくないとか、そんなことを考える前に嘘をつく。私は私の言いたいことを言わないで、言いたくないようなことを小さな声で呟く。私は私が自然とするような表情はせず、不自然に引きつった顔を披露して見せる。そんなことは皆少なからずやっていることは想像できる。だけど、私はほとんどいつも。そして何よりも、そんなコミュニケーションを心地よく思えていない。

私が嘘をつき始めたのはいつ頃だっただろうか。はっきりとは覚えていないが、おそらく中学三年生の頃からだろう。なぜ私はこんなにも嘘をつくのだろう。それは、自然な私が出てしまえばたちまちに迫害されてしまうという、論理的な根拠などまるでない、しいて言えば直感的な、あるいは経験的な感覚があるからだろう。

これは私の被害妄想だ。さらに正しく言うならば、おそらく私の感覚の内の九割五分くらいが被害妄想であろう。私はおそらく個性的な人間だから、そしてそれは持ち合わせている普遍的な要素が他の人より少ないということだから、私の話に眉をひそめる人は確かに少なくはないはずだ。だけど、実際に私が顔を合わせて話す人のうち、どれだけの人がそういう人なのかという概算については、私は大きく間違える。

そして、友人の言葉で加害妄想の側面を思いだす。私が私として自然な発言をすることで、他人を害し、傷つけてしまうのではないかという恐れである。友人の言葉は正しい。確かに私は加害妄想を持っていた。幼い頃から、少なくとも中学校に入学するころには、「自分はトラブルメーカーだ」という認識が私にあった。

被害妄想か加害妄想か。今日のテーマはこれだった。そしてその答えは、ここまで文字を書いてくる間に既に出ている。どちらでもあるし、どちらでもいい。

私が嘘をついてしまう原因が被害妄想であるならば、私の言葉、そしてそこに現れる思想、感覚、人柄は、相手のそれらの下に追いやられる。加害妄想とするならば、私のそれらは相手のそれらの上にのしかかり、圧迫する。それはもしかすると、大地の下にさめざめと埋められてしまうのか、大地の上で偉そうに地面を踏み鳴らすのか、そういうことに近しいかもしれない。私がここで言いたいのは、いずれの場合であっても、大地が基準で、埋められても踏み鳴らしても私は一人になる。

ここにはっきりと、私が嘘をつく理由が見えてくる。私の言葉が相手に拒絶される時、または相手を抑圧する時、そのどちらの場合においても、私と私の言葉は孤立する。私はそれが怖くて、そして悲しいんだ。

ここまで考えてきたことから、とりあえず、次の推論を出したいと思う。被害や加害を考えるのではなく、まず孤立の問題から扱った方が解決への道は近そうだということである。もちろん、自分のことを考えれば被害をなくした方が、相手のことを考えれば加害をなくした方が良いに決まっている。だけど被害や加害とは、相手の性格や場の状況が作用して現れる、偶発的な結果だ。私がここで考えなければいけない問題の本質は、孤立というものだということに気が付いた。

孤立への恐怖にはどう対処しようか。まずは、その言葉は孤立する恐れがあるのかどうかをしっかりと判断すること。上でも述べたけれど、多くの人は私の言葉などそうたいして気にしたりはしないはずなのだ。それは、きちんと頭を使って考えれば理解できる。その場面になったらまた緊張して、前もってしておいた計算のことなんかすっかり忘れてしまうかもしれないけど、頑張って見極めることから出発しなくてはならない。そして、たまにあろう孤立する可能性のある言葉、それが現れてから初めて、嘘をつく準備をすればいい。嘘のつき方にも何通りかあるだろう。全く違うことを言うとか、あるいは孤立を避けられるようなエッセンスを少し加えるとか、あるいは、最初から上手な、言葉にしても苦にならないような嘘を用意して言ってもいい。嘘もたまにつくなら、そう心苦しくはならないかもしれない。分からないけど。

それから最後に、補足をしたい。被害妄想も加害妄想も、それはある意味でとても自分勝手な行為と見なせること。私はそれでもよくしてしまうし、私と同じようにそういう不安を感じる人を責めたいわけではない。その人たちを傷つけたくもない。それでも、確かに自分勝手なのかもしれないというその可能性を、私は忘れるわけにはいかないと思っているし、忘れることはできない。

被害妄想を抱くということは、相手を加害者に仕立てるということだ。加害妄想を抱くということは、相手を被害者に仕立てるということだ。どちらにせよ、相手に、おそらくその相手は押し付けられたくないであろう役柄を、私が勝手に与えてしまうことに他ならない。それは多くの場合、私の中だけで完結することだろう。だけど確かに、その相手のことを、勝手な役柄に当てはめ、色眼鏡で見て、判断する。私はこういうことに過敏だから、そんな側面があることにも目を向け、目を向けたいと思い、そして補足したいと思った。

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