自分のことを考えてみよう④ -自己評価遍歴-

いつもお世話になっております。みずたまです。

今日は、これまで自分がしてきた自己評価について書こうと思う。というのも、最近ぼんやりと自分について考えていてふと腑に落ちたことがあって、おそらくその考えは、今まで下してきた自己評価の中で最も現状に自分に近いものなのではないか、すなわち、今自分は一番正確な自己評価をできているのではないかと思ったのである。多分、間違っている。数日後か、数か月後か、数年後に、きちんと訂正することになるだろう。だけど、今現在の考えを書いておくことは、きっと無駄にはならないはずだ。ということで、これまで自分がどんな自己評価をしてきて、今はどう考えているのかを書いていこう。

ここでいう自己評価とは何に関する評価かと言うと、自分の「全能」についてである。これだけじゃいまいち伝わりづらいと思うので、実際に自分がどう考えていたのかを説明する。と、途端に単純なことになるのだが、何を隠そう、私は昔から、自分には大抵のことは何でもできてしまう、と考えていた。こう書くと自分でも無謀に思われるが、割と今もそう感じる部分がある。自分ならやればなんとかなる、全能感にも近いそんな感覚が、21年かけて私の中で熟成されてきた。

となると、これは単に自分に自信があるかどうかの話のようにも聞こえるけれど、それは少し違うような気がする。後述するが、全能感があるのに自信が全くない、という時期がある。というより、現在を含めて、人生の大半がそんな時期だ。自分には何でもできるのに、自分には何もできない。そんな考えが、私の頭の中に常にある。

さて、前提はここまでにして、これまで自分がどのような自己評価を下してきたのか考えてみる。幼い頃、本当に子供だった頃、学校の勉強ができた私は、本当に何でもできると思っていた、というか、そんな風には意識していなかったと思うけど、とにかく自身に満ち溢れていた。全能感と自信とが一体化していたのかもしれない。「自分は天才だ」と言っていた記憶が、今文章を書いていて思い出される。あの頃、何も怖いものなどなかったのかもしれない。

やがて成長し、子どものままの心の中に大人の自分が同居するようになると、少しずつ全能感と自信とは分離していった。それは簡単な話で、何でもできる人が本当に何をやっても確実に成功するというわけではない。今日の話の核であり、「自分には何でもできるのに、自分には何もできない」という言葉遊びの解答でもあるのだが、「何かをする能力があること」と「実際にそれをやり遂げること」は100%結びつくものではない。人生には偶然要素が沢山ある。時期やタイミングがある。自分以外の人がいる。さらに加えて、能力があってもやる気がなければ、それをやり遂げることは不可能である。私は最初、その偶然要素でつまずいたと思う。自分でも失敗してしまうことを知った。できると信じていることでも、実際にできるまでは不安を抱くようになった。でも、それはあまり問題ではないような気がする。「現実を知る」的な、いわゆる”大人への一歩”だったと言えるだろう、か。

問題なのはこの後だ。私は大きな失敗をいくつかした。大きなつまずきをいくつかした。そして抑うつを感じるようになり、不安を感じるようになった。もちろんこの失敗も、自分の能力や努力不足に加えて、偶然要素によって引き起こされた。そう、どんな場面でも、偶然の要素が絡んでいないことなどないのだ。それなのに私は、当時の私は、偶然要素もひっくるめて自分で背負ってしまった。つまり、失敗の原因を、過剰に自分自身に求めすぎていた。偶然や他者のせいにできれば、仕方ないと言って切り替えられたかもしれない。開き直って、前に進めたかもしれない。だけど、私にはそれができなかった。自分を責めた。偶然要素もひっくるめて自分を責めると、究極的にはどうなるか。自分の誕生という偶発的な、あるいは人が奇跡的とも呼ぼうその出来事を、否定してしまうのだ。「生まれてこなければよかったんだ」。

少し論点外れたが、かくして、全能感と自信とが完全に分離した人間が生まれた。つまり、自分には何でもできる、なのに、自分は結局失敗してしまうから、自分には何にもできない。そのように考えるようになった。全能感が残り、自信が消え失せた。

こうなった私は、まず、ひねくれた。拗ねた。自分は何でもできるのにな、と思った。いい環境が与えられればと思った。周りが変わってくれればと思った。ただ、生まれてくる場所を間違ったような、そんな感覚だった。偶然要素すらも自分で背負ってしまうと、後はただ世界の成り立ちに文句を言うくらいしかできない。なぜなら、その背負った偶然要素は、偶然要素であるから、自分で意図的に変化させることができないからだ。自分にはどうにもできないもののために、自分は成功できない。自分にはどうにもできないものが自分を成功に導いてくれる時を、ただ文句を言いながら待つだけだった。これでは、前に進めない。

その後、度重なる失敗と、好転しない偶然要素に阻まれた私は、自暴自棄になった。自分には自信がなく、そして全能さすらもないのだ。自分には何もできないし、何をする能力もない。こうして、全能感も自信も失った。偶然要素を自分で背負いこまなくなった点は、一歩前進と言えるかもしれない。ただ本当は、背中から降ろした偶然要素と、背中に残したままの自分の能力を、きちんと分けて考えなくてはならなかった。なのに私は、偶然要素と共に自分の能力すらも背中から降ろした。つまり、世界は悪くない、生まれてきた場所も間違っているといは言えない、ただ純粋に、「自分にはなにもできない」だけなのだ、と考えはじめた。そして、ただ不安と焦りと悲しみを感じるようになった。

ここまで書いてきて、なんてとりとめのない文章になってしまったのだろうと感じている。自分でも考えがまとまらないけど、読み直して考えをまとめるのは一苦労だ。そもそも今日の話題が少し重めだったから、私はここまでで疲労困憊、精神的にも、少しダメージを負ってしまったかもしれない。ということで、ここで少したとえ話をします。

子どもの私は野山を駆け巡っていった。高い心肺能力と強靭な足腰。自分には登れぬ山などないと思っていた。麓の草むらをかき分け、山道を駆け、山頂にいったりいかなかったりしながら登山を楽しんでいた。成長した私は、登山に失敗することもあることを学んだ。時に転び、時に鳥につつかれ、時にお腹が減った。依然として心肺機能も脚力にも自信があった。だけどそれでも失敗することを学んだ。そして私は、連続して何度も失敗した。そして、石に躓き転ぶことも、鳥につつかれることも、お腹が減ることも、全部自分の責任だと感じた。すると、途端に自分に登山はできないことに気が付いた。石や鳥や空腹がこの世界にある限り、自分はどんなに肺が強くとも、体力があろうとも、登山に成功することはない。度重なる失敗が、私にそう感じさせた。そして文句を言って、山の麓で座っていた。すると段々に、山へと向かう気すらなくなり、自分には能力がなかったのだと思い始めた。石も鳥も空腹も、確かに世界にあるものだ。そして私にはそれらに対処することができない。さらには、心肺機能も、脚力も、実は何もかも持ち合わせていない。自分は最初から、山など登れない人間だった。山の麓で横になった。次第に、本当に心肺機能も脚力も衰えていった。やる気もなくなっていった。そうなればなるほど、自分が山に登れる気などしなくなっていった。そしてついには、山の手前の草むらにいるともいないともわからない蛇に怯えて、ぶるぶると震えているばかりになった。

とまあ、最近までそんな風に考えていたし、今でもそう思うことがある。だけど最近、ようやく、偶然要素と自分の能力とを比較的正しく判別することができるようになった。さっきのたとえ話の続きで言うならば、まず私には登山に必要な心肺能力も脚力もある。今は衰えている部分もあるけれど、鍛えなおせばどんな山でも登れるような体力は身につく、という感覚は戻ってきた。全能感が復活の兆しを見せた。また、偶然要素をしっかりと見極められるようになった。石も鳥も空腹も、確かにそこにある。さらに、それは私が責任を負うものでもなければ、そこにあってどうにもできないものでもない。適切に対処すれば、私にも乗り越えられる。すごく単純なことだけど、最近までそのことに気がつけなかった。偶然的な要素は、最初は私に降りかかった運命的なものに、次には不動の巨大な壁のように思えた。だけど最近では、ただの一つの偶然要素であると理解できるようになってきた。

本当によくわからない文章になってしまった。書きながら考えが変わることもあるから、本当はよく吟味して、推敲しなくてはいけないけれど、私はそれをさぼろうとしている。仕方ない。とりあえずここまでの総括というか、結局のところ私が今どのように自己評価しているのかを書いておこう。

私には能力がある。(全能とまでは言わないけれど)いろんなことができる潜在能力がある。その能力はずっと私の中にある。私が何かをするのが妨げられるとしたら、それは偶然的な要素にか、やる気のなさにかである。偶然的な要素は、何も私のせいで起こるものでもなければ、私にはどうにも対処できないようなものでもない。ただ、そこにある、だから偶然的な要素だ。だからその一つ一つに、しっかりと対処していけば、私は偶然的な要素を乗り越えられる。もちろん乗り越えられないこともあるけど、それは私の能力が否定されるわけじゃないし、もう二度と乗り越えられないものでもない。私は何度かやれば、つまり偶然的な要素と何度か対峙すれば、そのうちの何回かはその要素に対処することができ、やりたいことを完遂することができる。やる気に関しては、自分がやれると思ってさえいれば、本当にやりたいことにはついてくるものだ。私がこれまでやる気を持てなかったのは、やっても失敗する、どうせ無駄だと思っていたからだ。だけど、そんなことはない。私はきっと、何かを達成することができるだろう。

書いていて、なんて一般論なんだろうと思った。それが分かっていなかった自分が、そして今こうして文章にしてなお、ちゃんと信じきれてはいない自分が、不思議でもある。だけど、これが私という人間なんだろう。過去つきの人間の性質なのかもしれない。そして、少し前と比べれば、確かに信じられるようになっている。この一般論が、もしかしたら自分にも当てはまるかもしれないと、自分を鼓舞しようとする意気込みなしで、感じられるようになっている。ならばこの気持ちが続いているうちは、色々挑戦してみよう。抑うつに悩まされる人間は割と共感してくれるかもしれないが、私にとっては、「やれる時にやれることをする」ことが肝心なのだ。

書くのに疲れた! 過去と、自分と向き合うことは本当に大変なことだ。一人で背負うのは難しい! 今日書いたことは、後で誰かに聞いてもらうことにしよう。人に相談するのが苦手な私だけど、今年の目標の一つに「人間関係を大切にする」というのを設定したから。人に頼ることは、きっと大切なことだ。ということで、今日はこの辺で。だいぶ長くなってしまいました。読んでくださった方、ありがとうございました。

みずたま

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