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なぜ古いゲームで遊ぶのか?

私はしばしば古いゲームで遊ぶ。
これはなぜか?

keigoさんが「レトロゲームの呪縛から逃げ出したい」という記事を書いていた。

しかし、同時に30年前、40年前のゲームに興じていればそれで幸せなのかという疑問も持ち続けている。
最新のテクノロジー、まったくの新発想による新しいゲームをプレイし続けたい気持ちもずっと心のなかにある。
しかるに、昔時間を忘れて遊んだゲームがあれば、もうそれで幸せというのは、完成の墓場ではないだろうか。

もっともである。なるほどなあと思う。
私はなぜ昔のゲームを遊ぶのかを、ちょっと考えてみた。

昔のゲームだけあれば幸せか?

これはNOだといえる。
少なくとも私は「昔のゲームがあればそれで幸せ」とは思わない。
昔のゲームを遊ぶこともあれば、今のゲームを遊ぶこともある。

私の場合は「どちらか一方を選ぶ」というものではないことに気づいた。
比率として、古いのが多くなる時期、新しいのが多い時期、といった感じで偏りはあるが。

思うに私は「世のすべてのゲームを楽しみたい」のだと思う。

冒険活劇系のゲームや漫画で仲間として出てくる、学者系のキャラみたいだな! 世の中のすべての本を読みたい!世界の真理を知りたい!みたいな?
実際はゲームをいっぱい遊んでるだけのおっさんだけど…

まあ「全部」は正直なところ無理だとしても、なるべく多くの作品に触れたい。のだと思う。
古かろうと新しかろうと、未プレイのゲームであるならばそれは「新しい体験」だ。

新作だけじゃなく古いのにも手を出すのはなぜ?

子供のころ「ファミコンを持っているのだから」という理由で、PCエンジンは買ってもらえなかった。
(我が家ではファミコンが壊れてしまい破棄となったのちにPCエンジンを購入することとなるのだが、今回と関係ないので割愛する)

いや待ってほしい、ファミコンとは違うゲームが出てるんだから、どっちも遊びたいだろう。両方買うべきだろう!?
親におねだりしてゲーム機を「買ってもらってた」時代にはそんなことは言えなかった。
だが、大人になって給料をもらうようになったからにはもう遠慮はいらない。
全部買って全部遊べばいい。

「当時遊ばなかった名作ソフト」は超いっぱいある。そうなると、昔のゲームの購入数が多くなるのは致し方ないところだ。購入対象が多すぎる。
当時持ってなかったハードのゲームを端からやりまくろう。バーチャファイターもサクラ大戦も気になってたんだ。
さらに、海外でしか出てなかったゲームを買おう。日本の本体で動かないなら海外の本体も買っちゃおう。
家庭用に移植されてないゲーム?よし筐体買おう

私のライブラリーにはそうして、レトロゲーム…に限らない、様々なゲームソフトが増えていった。
同じタイトルのゲームの、各ハードの移植違いなんかを遊び比べたこともある。

映画や本では当たり前の事

映画や本に例えるとしっくりくる。
「いまさらクロサワ映画なんて見てるの?
 白黒だし。何喋ってるかよくわからなくね?
 アベンジャーズの方が全てにおいて優れてるよ?」
  →人によるだろうが、一概にそうとは限らない
「今更夏目漱石なんて読んでるの? 古いし意味なくない?
 君の膵臓をたべたいの方が泣けるよ?」
  →人によるだろうが、一概にそうとは限らない
…と、なるはずだ。

皆さんもお分かりと思うが、昔のゲーム作品は賞味期限が切れてカビの生えた価値のないゴミ、というわけではない。
「古典作品」として楽しめばいいのだ。
当時なりの技術や世相が反映されていて、今の技術や価値観と合わないものや、拙く見える部分もあろう。
しかし、そんな中でも表現したかったものがあって作品が作られ、当時の世に受け入れられてきた。これを知ってて遊ぶ分には全然OKではないかな?

映画と同列に扱っていいものか?

映画と本はわかるが、ゲームはそうじゃねえだろ下らねえ。という意見もあるかもしれない。
しかし私はそうは思わない。
映画もゲームも小説も娯楽だし、いずれのコンテンツも、たとえこの世に存在しなかったとしても人類は生きられるものだ。
そういう意味においては、カテゴリとしてそんなに違わないと私は思う。

それなのに差を感じるならば、"まだゲームが社会的に舐められてる"証拠なのだろう。
この思想は世代が変わらないとなかなか変わらない。

ゲームは糞くだらないし価値がない、と言ってる人はおおむね老人に多くて、中年より下の層はおおむねゲームをして育った世代になる。今だともう、50代でもインベーダーゲームやファミコンやりまくった人はいるだろう。

それより上の老人がみんな死ねば「下らねえ」って意見は消えて、映画と同じような扱いをされるようになっていくのかなと思う。
今では文化あつかいされてる映画だって「活動写真」って呼ばれてた頃は、本を読まねえであんなモン見やがって。と老人に煙たがられてたはずだ。
昭和レトロのブリキのおもちゃがヴィンテージになるなら、ゲームだってヴィンテージになりうる。私はそう思う。


同じのを何度も遊ぶことについて

話を戻そう。
この問題にはもう一つの問題点(?)がある。
それは「同じゲームを何度もいつまでも遊び続けてる」問題だ。

でも、これもそんなに不思議な事ではないと思う。
お気に入りの小説は自分の本棚に入れてあり、読み返すこともあるだろう。
金曜ロードショーでやってたのを録画した「となりのトトロ」は(古い表現だが)ビデオテープが擦り切れるまで何度も見ただろう。
これもおかしなことじゃない。トトロそんな見てない人は「天空の城ラピュタ」「魔女の宅急便」「もののけ姫」でも構わない。
お気に入りを取っておいて見返すことは別におかしくない、普通の行為だ。
あ、でも、私は同じのを繰り返し見る「だけ」では満足しない。
同じのを遊ぶ「こともある」。それはあっても普通だ。というスタンスだ。

たとえばテレビ番組だと、ニュース番組とか朝のワイドショー、情報番組、あとは、新聞記事なんかも。
これらは速効性がすべてで、時間とともに消費されていく。
次々と新しいものを求めて、ナウくてホットでイケてる情報をどんどん吸収して、古くなった情報はどんどん捨てていく。というのが正しい楽しみ方であるといえる。
その手の番組は、そういう世の中の流行り廃りの流れを造り出すために流されてる映像なのだといっても過言ではないと思う。

しかしゲームはそうではなく…

あ、ソシャゲはそっち(ワイドショーや情報番組)と同じコンテンツかもしれないね。

私はソシャゲはあんまり好きじゃないのと、今回の趣旨とちょっと違う話になりそうなので今回は割愛しよう。
いわゆる「テレビゲーム」は、家庭用ゲーム機のみならずサクッと遊べるゲームセンター用のゲームであっても、映画や小説に似たものだと感じる。

となりのトトロはビデオデッキの時代に上映された(地上波でも幾度となく放送された)作品だが、DVDの時代になったら同じ内容のDVDが出たし、今では同じ内容のブルーレイも売っている。
太宰治とかの小説も、同じ内容で、表紙のイラストを現代風にして復刊とかしてる。

世の中がそれを求めているから、売っているのだ。

バトルガレッガやエスプレイドの忠実な移植作品や、スト2と名の付くゲームの全部入り復刻ゲーム、ダライアスの全部入り、FFのリマスター。
当時と同じ内容の復刻のものもあれば、時代に合わせて絵が奇麗になっているものもある。
概ね映画と同じじゃないかな?

幸せな体験があればいい

新作のゲームを遊ぶ傍ら、昔の作品で遊んだことのないゲームも貪るように愉しみ、お気に入りは繰り返し遊ぶ。

幸せなことだと思う。

人にとって余暇の時間は有限だから、全部を完ぺきにこなすのは無理かもしれない。
アニメの録画だって観きれなくて、倍速で第1話だけ見て切る、なんてこともしてるような時代だし。
偏って構わないと思うし、どっちに偏らせるのかは好みで決めて別にいいし、気が変わったら比率を変えたっていい。
理由を説明する必要も、疑問を覚える必要もない。他人のプレイスタイルに意見するのは野暮だ。自由にすればいい。

多分だけど、持ってるゲームを全部やりこみつくす前に、私は死んでしまうと思う。
病気か事故か寿命か、70歳か80か、100まで生きるのか、そんなのはわからないけど。
それすらも、別にやりこみ尽くすことに責任を感じることはない。やらなきゃいけないことではない。

そこに幸せな体験があること。これだけ考えていればじゅうぶんなんじゃないかな。

[B] で ぬけます.