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薄荷パイプの月を見上げて

「じゃあね、ありがと。気をつけて帰ってね」
「あなたこそ、気をつけてね」

 正月明けの駅のロータリーはすき間なく車がならんでいて、わたしは急いで車へ戻った。イルミネーションの青白い光が、娘の白いコートをいっそう白く浮かび上がらせる。お土産と食べ物でぱんぱんの白いスーツケースを押して数歩すすむと、彼女は足を止めて振りかえった。まるで、わたしがまだそこにいることを知っていたかのように。外ハネに巻いた毛先が肩で揺れている。運転席から手を振ると彼女も手を振って、コンコースのドアの向こうへ進んでいく。

 その瞬間、カーステレオの KALMA にザザ・・・ザザザ・・・と砂嵐が入った。娘の白い肩が軽くはずんで雑踏に消えていくころ、音楽は完全に途切れてしまった。カーナビの画面には「受信できません」の文字。
 だから、Bluetoothオーディオは嫌いだ。
 のろのろと人差し指で画面に触れる。選手の登場曲を集めたプレイリストからアップテンポな Mrs. GREEN APPLE を選んで、シフトノブをDに入れた。これは誰の登場曲だったっけ。ミセスだから溝脇選手かな。来季も登場曲はミセスだって言ってたしね。夜に似合う曲ではないけれど、明るく元気で、アクセルを踏みこむにはもってこいの疾走感。

 

 

 今でもその光景は目に焼きついている。
 後部座席の窓から身を乗りだして手を振りつづけた幼い日も、初心者マークを車に貼って初めて自分で運転していったあの日も、息子と娘をチャイルドシートに座らせて汗だくだった日々も、いつも同じ。祖父母の家から帰るときはいつだって、祖母は手を振っていた。次の角を曲がって見えなくなるまで、ずっと笑顔で見送って。

 ひっそりと悩みを打ちあけたあの日、運転席に乗りこんだわたしに祖母は言った。
「あんたの思うとおりに生きなさい。うたの人生だからね、大丈夫」
 角を曲がる前に振りかえると、祖母はいつもと同じ笑顔で手を振りつづけていた。涙で信号がにじんで見えて、泣きながらハンドルを握りしめた。

 あのとき、おばあちゃんもこんな気持ちだったのかな。
 胸の奥で薄荷パイプの香りがした。ちいさい頃、お正月の神社の参道で買った、あまくてすうすうする派手なピンクと黄色のパイプ。


 
 
 信号待ち、窓ガラスの向こうに目をやると、もうずいぶんと満ちた月が白く光っていて、にぎやかな曲調とはうらはらな静けさだった。

―――淋しくなんかないよ。日常に戻るだけのことじゃん。
 
 そんなことばがふと浮かんだってことは、やっぱりわたしは淋しいんだろう。
 娘が帰ってきたつかの間の5日間、わたしは楽しかったから。彼女のリクエストに応えて食事を準備したり、知らない仕事や都会の暮らしに耳を傾けたりするのは、にぎやかで慌ただしくてやっぱり楽しい。
 まるでひとり暮らしのような日常が、またはじまる。ちょっと淋しいけれど、好きなだけ仕事をして、好きなだけ野球を見て、好きなだけ活字に触れられる、わたしのための日常。

 

 おばあちゃん、大丈夫だよね。
 わたしの人生なんだから。

 

 ミセスはハイトーンで歌いつづける。
 薄荷パイプの香りを味わいながら、わたしは日常へとハンドルを切った。

 

 

私色で彩って
誰とも比べないスタンスで
ある日突然花が咲いたらラッキー
そんな調子で生きろエヴリデイ

Mrs. GREEN APPLE「ニュー・マイ・ノーマル

 


ここまで読んでくれたんですね! ありがとう!