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泣きっ面に熱風

窓の向こう、満開の百日紅が大きく揺れている。
とくとくと陽が傾いて、長い影を作る17時半。
職場と家の往復+たまにスーパーという長い自粛生活を送っているうちに、いつの間にか季節が移ろっていることに驚く。
夕方に風が吹くのは、夏の終わりの合言葉。
もうすぐ、来る。
ほら、みるみるうちに陽が翳る。

「夕立が来そうですね。あーぁ。僕、外に干してきちゃったんスよねー。降る前に帰れるかなぁ?」
突然暗くなった窓の外を見て、隣の玉森さんが呟く。
「降ってきたら、濡れちゃう感じなの?」と聞くと、「風吹いてるとダメなんスよ」と返ってきた。
ここの若いパパたちは、呼吸するように家事をする。
「降られる前に、研究室へサインもらいに行ってくるわ」と、書類をクリアファイルに入れて部屋を出た。

事務局のあるE棟から目的の研究室のあるA1棟までは、3つの建物を経由して行く。
途中で、ゴロゴロと雷の音が聞こえてきた。
何とか降らずに終わってくれないかなぁ・・・と思いながら先を急いだが、間に合わなかった。
バリバリバリバリ・・・
40℃近い昼の熱気が形作った入道雲は、一気に放電を開始して、5階の研究室についたときにはノックの返事が聞こえないほどの轟音と振動だった。
「ひどい雷! これはひと雨きますね。先生、傘持ってます?」なんて話しながら、無事にサインをもらって、急いで研究室をあとにする。
防火扉を開けて階段室へ入ったとたん、ダダダダダ・・・・と屋根をたたく大粒の雨音が響いた。
窓は洗車機で洗われているように水が絶え間なく流れていて、雨はもはや粒ではない。

B1棟からC棟へ戻る渡り廊下は、どの階にも屋根こそついているけれど壁はなかった。
2階の渡り廊下の手前で、私は立ちすくんだ。
開きっぱなしのドアから、既に建物内に雨が吹き込んでいる。
なんなら、たった数メートルのC棟入口までが、斜めに降り込む雨の波状攻撃と水しぶきで白く煙っている。
これでカッパ着てマイク持ってたら、室戸岬の台風中継だ。
まるで、映画のような非現実的な画。
カメラを持っていたら、この画づらnoteに使えるのに・・・なんて、浅ましいことを一瞬だけ考える。
いやいやいやいや。カメラ濡れるわ、これ。危険だわ。
っていうか、書類!
もちろん、傘なんて持っていない。
教授の傘の心配なんかしてる場合じゃなかった。

くっそ! 壁つけとけ! こんなところで工賃ケチるな!と、今さら悪態ついても仕方がない。
覚悟を決め、クリアファイルごとシャツの下に隠して身体を丸め、人生最大級の瞬発力で走り抜ける。
結果、ものの3秒で見事に全身洗車された。
一箇所、クリアファイルを隠したおなかを除いて。

濡れそぼった犬のように前髪からぽつぽつと水を落としながら、部屋に向かう。
「水野さん、ビッショビショじゃないっスかー!」と笑いを取れるかと思いきや、玉森をはじめ課員全員が定時で帰宅していた。
残っているのは、黙々とPCに向かっている別の課の職員1名だけ。
何てこったい。
濡れただけで笑いひとつ取れないなんて、なんという濡れ損!
びしょびしょの絞れそうな服は、あっという間にエアコンに冷やされてキンキンになるし、この状態で椅子に座るのもイヤだ。
幸い、小雨になった。今のうちかもしれない。
カンガルーの母よろしく守り抜いた書類をデスクの引き出しにしまって、もう切り上げることにした。


ところで、この文章のタイトルを覚えているだろうか?
「泣きっ面に熱風」
オフィスのエアコンの冷風には冷やされても、熱風はまだ出てこない。
え? もう飽きた?
待って。もうちょっとだから。


職員通用口を通って外へ出ると、北西の雲の切れ間からオレンジの光が射していてホッとした。
この雨も、じきに止むだろう。
車に乗り込み、エンジンをかける。
普段ならヤケドしそうなくらい熱いハンドルも、今日は握れないほどの暑さではない。
雨のチカラは偉大だ。
走り始めてすぐ、AUTOにしたエアコンがボォォォオオオっとMAXで吹き出してきた。
何しろ全身びしょびしょなのだ。前髪も服も肌に張りついて気持ち悪い。
それなのに、なかなか涼しくならず不快感MAX。
たまらずマスクを外す。

すると3分くらいで、窓の内側がくもりはじめた。
???
今、冬じゃないよね?
そういえば、エアコンから出ている風・・・熱風じゃん!
慌てて外気循環に切り替え、デフロスターのスイッチを入れる。
それでも、出ているのは熱風だ。
車の窓を開けると、ひんやりした空気が入ってくる。
さすが打ち水効果!・・・って感心してる場合か!
車載の外気温計は32℃の表示。
いくら濡れているとはいえ、32℃をひんやり感じるってどうかしてる。
エアコンのスイッチは点灯していて、確かに入っているはずなのに。

やっぱり12年目はダメかも。
先月、車検通したばかりなのに・・・と思うと泣きたくなる。
冬なら着込んで手袋すればいいけれど、ただでさえ暑がりなうえに更年期ひよこ組。夏は耐えられない。
もはや、湿度100%のせいなのか、冷や汗なのかわからないけれど、全身500万個すべての毛穴から水分を垂れ流しながら、何度かエアコンのスイッチを入れたり消したりしてみる。
もちろん、運転は片手ハンドルだ。
若葉マークと熟練ドライバーの片手運転ほど危険なものはない。
でも、エアコン入らないと、家につくまでに確実に熱中症で死ぬ。
カチャカチャ・・・カチャカチャ・・・
押してダメなら、強く押してみろ!
つくんだ! エアコン!
ついてくれるなら、私は丹下段平にでも力石徹にでもなってやる!

その無茶苦茶な祈りが通じたのだろうか。
そのうち、急に出てきた冷たい風が、エアコンの輝かしい復活を私に告げた。
エアコンの吹き出し口からピンクの薔薇の花びらが宙を舞う。
いつの間にか丹下段平はオスカルに、矢吹丈はアンドレに変わっていた。
要は、吹き出し口じゃなくて、暑さにラリッた私の脳内を花びらが舞っているというこの情景。
はぁぁ〜! エアコン最高!


そして翌朝。
いい夢見て目覚めたピーカン土曜日。
車に乗って、エンジンかけて、ハッとした。

もう2度と、エアコンは目覚めなかった。
アンドレに変わってなんていなかった。
やっぱり矢吹丈のままだったんだ。
燃え尽きたぜ・・・真っ白な灰になって・・・。


修理の見積もりは、¥95,843也。
南無阿弥陀仏。

ここまで読んでくれたんですね! ありがとう!