立ちはだかった高い壁-大島洋平、更なるチャレンジへ-
その瞬間、涙があふれてきたけれど、どうして自分が泣いているのかわからなかった。なぜなら悲願の首位打者を彼が獲ったわけではないし、それが決まった瞬間でもなかったからだ。2022ペナントレースは数時間前に全日程を終了していて、東京ヤクルトスワローズ・村上宗隆の最年少での三冠王が確定していた。
このとき、中日ドラゴンズ・大島洋平が同じ日にあんな言葉を刻んでいたなんて、わたしは知るよしもなかった。
10月3日、DeNA対ヤクルトのセ・リーグ最終戦を見て、引退する選手達や村上宗隆の56号に涙腺が弛みきっていたのは事実だけれど、そのとき こみ上げてきた涙はきっと全然種類のちがう涙だった。
でも、それがどんな涙なのか、今はまだ、うまく説明できない。
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今年こそ・・・! そう思っていたのは、けっして本人だけではない。
わたし達ファンの多くもそう思っていたし、願っていた。
36歳でむかえた2022シーズン。立浪新監督から野手キャプテンに指名された大島洋平は、開幕当初から快音を響かせていた。岡林・鵜飼・石川・・・若い選手たちを背中で率いて始まった春は、希望の光に満ちていた。
前途洋々だったチームの風向きが変わった瞬間を、わたしはきっと忘れないと思う。
4月27日、小雨が降ったりやんだりしていた阪神甲子園球場。その日はナイターで、阪神・西勇輝と中日・勝野昌慶の投げ合いだった。
わたしは早めに仕事を片付け、自宅で夕飯を作りながらテレビでその試合を観ていた。事が起きたのは5回表。二死から京田が二塁打で出塁して、バッターは絶好調の大島。ゴツっという耳慣れない鈍い音に、思わずキッチンを飛び出した。右膝外側への死球。画面には、四つん這いのまま動けず苦悶の表情を浮かべる大島と、ベンチを飛び出して駆け寄ったトレーナーとコーチ。当ててしまった西勇輝は帽子を脱ぎ、テレビのスピーカーから聴こえるほどの声で「すいません・・・すいません」と謝っていて、コーチ達に脇を支えられ、ケンケンしながら片足で下がろうとする大島の前には、平田良介がかがんで背を向け、彼を背負おうとしていた。
普段なら手当てを済ませてすぐに一塁に向かうはずの大島は、そのまま交代となり、翌日の欠場を経て一軍登録を抹消された。抹消時の打率は.354、リーグトップだった。
ここからドラゴンズに暗雲が立ちこめ、荒波がやってくる。
実はこの試合、好投の先発・勝野もわき腹を痛めて途中降板し、のちに大島と、数日前に打球が当たっていた桂とともに登録を抹消されている。
その後、木下・石川・鵜飼・ビシエド・A.マルティネスなどの長打を打てる野手と、制球力の高い投手陣が相次いで故障やコロナで離脱。チームは得点難に陥り、5月下旬には7連敗、交流戦のあった6月には2度の6連敗を喫して、リーグ最下位に沈んでしまった。
岡林・土田など若手の活躍やコロナ離脱組の復帰によって後半戦は持ち直したものの、前半戦の借金を返し終えることはできなかった。開幕当初に期待していた“熱狂”は、シーズン終盤には残念ながら優勝争いではなく、選手の個人タイトル争いに姿を変えていた。
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4月末の大島洋平に話を戻そう。
“打撲”と診断され、4月29日に登録を抹消された彼が練習を再開したと報じられたのは、わずか1日後のことだ。元気そうな姿に ほっと胸を撫でおろしたのもつかの間、5月17日のネットニュースにTwitterは騒然となった。
この日、大島は二軍で実戦復帰し、いきなり二安打を放った。同時に報じられたのが、ファンが気になっていた“打撲”の状態。死球で“神経が切れ”、一時は足首から先が上がらない“下垂足”状態になり、“(完治まで)2~3ヶ月”と言われるような大きな怪我だった。おそらく腓骨神経を損傷したために麻痺が起こったのだろうと推測するけれど、一時は「拷問を受けて、悲鳴を上げてました」と本人が言うほど痛みがあったのだから、その症状は一般的な打撲のイメージとはかけ離れている。
“驚異的な回復力”で5月20日に一軍復帰したものの、抹消前リーグトップだった球界屈指のヒットマンは完全復帰とはいえない状態だった。感覚が完全には戻らない右脚を気にする様子がファンの投稿動画からも見てとれるし、6月初旬には彼には珍しい23打席無安打も記録して、打率は.272(6月7日時点)まで落ち込んだ。
ところが、6月8日のロッテ戦で2安打を放つと、大島はそこからわずか2週間で打率を3割に乗せ、あっという間に首位打者争いに加わった。自身が苦手だと言っていた夏場になっても好調は続き、8月3日のヤクルト戦では6打数6安打を放って、打率は.329まで上昇。DeNA・佐野恵太、ヤクルト・村上宗隆を抜いてトップに返り咲いた。
絶好調の大島を再びアクシデントが襲ったのは、8月12日のことだ。
この日発熱した大島は検査の結果コロナ陽性と診断され、特例2022として抹消された。4月末の負傷で既に3週間の抹消期間があるから、回復具合によっては規定打席到達すら危ぶまれる事態。
それでも、大島洋平はシーズンを走り続ける。8月26日の阪神戦で一軍復帰すると、いきなり2安打。死球離脱からの復帰とは違い、シーズン終盤となった9月も好調を維持して、9月22日にシーズン規定打席に到達。最後の最後まで首位打者争いを続けていた。
どれだけ打ちまくっていても、インタビューでは「(自分のことは)シーズン終わってから考えます。明日勝てるように頑張ります」と言い続けたキャプテン・大島が、自身のタイトルについてはじめてコメントしたのは、チーム最終戦を控えた9月30日のことだった。
「追い越せるように頑張ります」
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ペナントレース最終戦が終わった10月3日の夜更け、わたしがベッドに寝転びながら読んでいたのは、確定したタイトルについての記事だった。
セ・リーグの打撃タイトルは最終戦までもつれ込んでいたから、祈るような気持ちでこの日の試合を見つめていたドラゴンズファンも多かったことだろう。その証拠に、中日・岡林勇希とDeNA・佐野恵太がともにシーズン161本で最多安打に確定したとき、Twitterのタイムラインは喜びの声であふれかえった。
いっぽうで、シーズン最終盤まで白熱していた首位打者部門が、あきらめムードだったのは否めない。36歳で自身初の首位打者を狙う挑戦者・大島洋平と、22歳で三冠王に王手をかけた村上宗隆。9月27日終了時点で大島は.3191、首位・村上の.3199に8毛差まで詰め寄っていたけれど、ファンの必死の祈りも本人の必死の追い上げもあと一歩届かず、10月2日、大島は.314でチーム最終戦を終えていた。この日、試合を欠場していた村上の打率は.317、これ以上打席に立たなければ首位打者確定となる数字。村上の首位が決まったわけではないけれど、ほぼ当確状態だった。
結局、ペナントレース最終戦に出場した村上がたたき出した結果は、言うまでもないだろう。4打数2安打で年間打率を.318に押し上げ、最終打席には王貞治を抜いて日本人シーズン最多記録となる56号のホームラン。
もはや文句なし! ダントツの打撃成績で、村上は史上最年少の三冠王となった。
だから、その記事を読んだところで、大島の名前はない。
当然だ。タイトルホルダーについて書かれた記事なのだから。
次のページへ進むと、表が出てきた。
打撃タイトルのいちばん上に記される首位打者。
2年連続の最多安打に、盗塁王やベストナイン、9度のゴールデングラブ賞に輝いてきた大島洋平が、何度となく目標として口にしてきたのが、この首位打者だった。
首位打者の欄に書かれた「村上宗隆」の文字を見た瞬間、涙がこみ上げ、頬をつたった。
悔しかったわけじゃない。
悲しかったわけでもない。
もちろん、怒りでもない。
この感情は・・・何だろう。
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気持ちをうまく整理できないまま涙を拭いて、この文章を書きはじめたけれど、なかなか書きすすめることができない。ペナントレース全143試合を、球場やテレビやラジオを駆使してフル観戦で応援してきたから、どこか燃え尽き症候群みたいなところもあったかも、とは思う。ファンでさえそうなのだから、本人はどんな時間を過ごしているのだろう。
大島洋平は自らSNS等で発信することはない。アカウントを持っているInstagramも2021年3月の初投稿以来、更新されていない。だから大島本人の気持ちなど知るすべもない。
書けないままTwitterを眺めていたら、大島ファンとしてつながっている あるフォロワーさんからDMが届いた。彼女から教えてもらったあるツイートを見た瞬間、ぎゅっとなった。
それは、わたしが涙を流したあの日に書かれたであろう、大島洋平の言葉だった。
心がしわくちゃになった。
心臓が大きな手のひらに時間をかけて握りつぶされるような、そんな感覚。
大島がどんな思いでこの言葉を書いたかなんて、わたしには想像することしかできないし、勝手にその思いを想像するのは失礼なことかもしれない。
でも、若返りを図るチーム方針のなかで、死球とコロナというアクシデントによって2度の離脱を余儀なくされた彼が、並々ならぬ思いで打席に立ってきただろうことは、ファンなら誰もがきっと解っている。
この言葉の前日の10月2日、快晴のマツダスタジアム。
眼の前に立ちはだかる“最終打席”は、挑戦者・大島洋平にとって、どう見えていたんだろう。立ちはだかっているのは、村上ではない。投手・藤井でもない。おそらく大島自身だったはずだ。
そして、それが“壁”だったと自ら認めるまでに、どれだけの苦しみを、どれだけの悔しさを飲み込んだんだろう。
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大島が色紙に書き記した言葉に触れた夜、そのツイートの存在を知らせてくれた彼女とDMで長いやりとりをした。ふたりで推しについて3000字以上かけて熱く語り合った内容は胸の内にそっと留めておくけれど、安心して語れる空間のなかで本音を文字にしたことで、わかったことがある。
わたしが流したあの涙の、正体。
それは「やるせなさ」だったんだと、今は思う。
2022年1月、チームの垣根を超えて若い選手たちが集まる、“大島組”の過酷な自主トレ。自らを限界まで追い込み、シーズンに向けて“身体を一から作り直”していたときから、大島はあの最終打席を見据えていたはずだ。2度の離脱に苦しみながら、勝てないチームをキャプテンとして時に鼓舞し、時に支えながら、彼は常に自分自身と闘ってきた。
野球脳と技術と身体能力、そして精神力。ベストを尽くしても、悲願の首位打者にはあと一歩及ばなかった。
わたしはただのファンに過ぎないけれど、どうしようもなくやるせなかった。
それでも、色紙のなかの大島洋平は、既に2023シーズンを見つめている。
今シーズンの野球中継で、何度となく耳にした言葉がある。
「大島は年を取りませんね」
「大島は若返ってますね」
来月には37歳の誕生日を迎える大島洋平。
オフには闘い尽くした心身を癒やして、また年が明けたら彼自身の言葉のとおり、首位打者への「更なるチャレンジ!!」を見せてほしい。
2023年10月。
ドラゴンズの優勝に泣き、大島の首位打者確定に涙をこぼしながら喜びを分かち合い、わたしはきっと、CSファイナル・ステージをバンテリンドームナゴヤで心はずませながら応援している。
心の準備は、もう出来ている。
ここまで読んでくれたんですね! ありがとう!