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ベテルギウス

「確認ボタンを押して、すみやかにお帰りください」
「はい、おつかれさまでしたー」

 やけに明るい自動音声に平坦な返事をして、職場を後にする。このところ残業が続いていて、7連勤目の土曜も早朝からの出勤だった。オフィスの出口にあるのが昔ながらの守衛室だったら、「今日も仕事? 休みなのにおつかれさん!」っておじさんが笑ってくれそうな感じ。

 誰もいない廊下はやけに足音が響く。手元をスマホで照らしながら鍵を閉めて、駐車場へと歩きだす。胸いっぱいに吸いこんだ空気はきんと冷えていて、わたしは思わず空を見上げた。

 

 

 その人といるとき、いつも時間はあっという間だった。

 政治や経済、音楽業界のこと、見たことも聞いたこともないアメリカの砂漠の続く道のこと、その人の語る未知の世界をわたしは旅して、その時間だけはその人とふたりで生きてきたかのような、うつくしい世界誤解に棲んでいた。
 その人の部屋にいるとき、わたしは「フルーティで重めだね」とその人が言った赤ワインを舐めるように口にふくんで、どうやってその香りをくちびるにのせようか考えていたし、ギターのネックをすべる指先を見つめながら、そのつめたく硬い指先が肌をすべる感触を思いかえして、両の膝の内側をきゅっと寄せていた。

 窓の外を新聞配達のバイクが通り過ぎて、そっと肌を引き剥がす。「そろそろ帰るね」と散らばった下着を身につけるとき、振り返らなくても解っていた。その指がもう一度、わたしに触れたくなる角度を。
 次の夜までつづく呪文をかけたかった。

 知っていたからだ。その人が、来る者はこばまず、去る者は追わない人であることを。自らを誰にも明け渡さない、その自由な心を。
 つながらない電話、夜更けのインターホン、ニアミス・・・女性の影がちらつくその人の脳内を、わたしでいっぱいにしたかった。そう思った時点で、わたしはもうその恋に負けていたのだけれど、当時は気づきもしなかった。

 ドアを開けると一気に冷気が流れこんで、思いとは裏腹にゆっくりと口角を上げる。

「じゃあね」
「遅いから気をつけて」
「寒いから早くドア閉めてね、おやすみ」
「帰ったら、連絡して」

 鍵の閉まる音を背に大きく息を吸いこんで、空を見上げる。いつもの儀式だった。真冬の空はきんと澄んで、名前のわからない星々がたくさん浮かんでいる。ほそく長く息を吐くと、白く煙のように揺れて透明な夜へ溶けていく。
 見慣れた三つ星はずいぶん低く位置を変えていて、リゲルの対角線上にはベテルギウスが赤く光っている。青白くひときわ明るいシリウス、そしてプロキオン。
 恋には賞味期限がある。いまは燃えさかる青白い炎も、いつの日か熾火おきびのようなおだやかな愛に変わる日がきっとくる。理科の教科書にも星座盤にも載っていない星空が、そこには広がっていた。

 次の夜がくるかなんて誰にもわからない、不安定な恋。

 どうしようもなく焦がれて、どうしようもなく好きだった。
 それまでの恋とはまったく手ざわりがちがっていた。
 その人の過去も未来もまるごと全部手に入れたかったし、できっこないことも知っていた。

 あの頃、わたしはきっと一生分の恋をしたんだと思う。

 

 

 ブレーキペダルを踏みこみ、ボタンを押してエンジンをかける。
 あの人が今夜の星空を見上げたら、何を思うんだろう。すくなくとも、わたしを思うことなんてないと思う。そもそも寒いのは苦手だから、冬空を見上げることすらないかもしれない。

 それでも空に三つ星を見かけたら、わたしはベテルギウスを探してしまうし、あの頃が自動再生される。メルトン地の黒いミリタリーコート、長いまつ毛と淡い瞳、弦で硬くなった冷えた指先。

 片側三車線の国道は今夜も混んで、サイドミラーを流れる光に記憶が融けていく。ウィンカーを出してハンドルを切る。
 その瞬間、フルーティな赤の香りがした。

 

 



ここまで読んでくれたんですね! ありがとう!