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それでいいし、それがいい。

会えずにいた日々、あなたは何を感じていたのでしょう。
私には、とてつもなく長く感じる日々でした。
春先の楽しみに・・・と2月に予約した日本酒は、まだ箱のまま冷蔵庫に眠っています。

2020に向けて美しく整えられていた東京はウィルスに飲み込まれ、オリンピックは延期になりました。
通常時も慌ただしい私の春にも、容赦なくリモートの波が押し寄せました。
マスクにフェイスシールドにアクリル板に手指消毒にキープディスタンス、そして外出の自粛。
ウィルスのもたらした分断の壁は、今なお重く、分厚いままです。

 

 

最後に出かけたのは、いつのことだったのでしょう。

しんと冷えた日本橋、クラフトビールで乾杯したのは仕事納めの晩のことでした。
このあとの楽しみを内ポケットにしのばせ、ほんのりラベンダーの香るグラスを差し出すあなたと、そのグラスにピントを合わせる私。濁りのある黄金色の液体の向こうには、鈍い銀色のサーバーが並んでいて、あなたは「歩いて行けるところに、こんなバーがあったらなぁ」と幸せそうに喉を鳴らします。Beacon Saisonはオレンジのような爽やかな香りがしました。
ほろ酔いで向かったライブ会場のエントランス。ドリンクを受け取りながら「この夜景、撮った?」と振り返るあなたの笑顔を見て、私が撮りたいのはその笑顔なのということばを飲み込みました。だって、カメラを向けると、あなたはいつも照れてファインダーから逃げてしまうでしょう?

あのセットリストでいちばん印象的だった曲を歌ってみたのは、たしか2月の初めのことでした。
丸の内サディスティックと同じコード進行、とろりと蠱惑的なコアントローの恋。狭いカラオケボックスで歌うことも忘れ、私たちは“君”と“彼”と“あの子”と“私”の恋の迷路を読み解いていました。そう長くもない歌詞なのに、ふたりの解釈は一致しなくて、頭をつき合わせて手がかりを探す旅をしたのを覚えています。歌詞や曲の構成について語り合うのも、音を探してあなたとハモるのもいつものことで、それは心おどる瞬間でした。
あなたといると、魂がよろこぶのです。よくわからないけれど、そういう感じがするのです。この気持ち、伝わるかしら?
思えば、これがマスクなしであなたと会話した最後の日だったのかもしれません。

 

そのわずか2ヶ月後、私は思い知るのです。
日常をほのかに彩るこんな出来事が、限りなく贅沢な時間だったということを。

 

 

あなたと会えなかった半年間。
冬空の下で輝いていた街はウィルスに飲み込まれ、オリンピックもライブも野球も演劇も、すべてが先送りになりました。
ただでさえ余裕のない私の春は、リモート対応で昼も夜も夢のなかまで仕事が押し寄せ、つぶれてしまいそうになりました。
毎年あなたと見ていた桜は在宅業務のあいだに散り果てて、酷暑を耐えぬいた今はもう、葉を染め、冬支度をはじめています。

美しいものに出会ったとき、心ふるえる音楽を聴いたとき、美味しいものを味わったとき、いつだってその傍らにはあなたがいて喜びを分かち合ってきたのに、この半年はLINEや電話で伝えることしかできなくて。
たまに電話で声に触れるとほっとするけれど、会いたくなってしまうのです。車に乗れば10分と待たずに会えるのに、果てしなく隔てられているように感じます。
細胞壁をもたないというのに、ウィルスがもたらしたこの壁はなんて分厚いのでしょう。

いつになったら?と問う私に、「感染状況が落ち着いたらね」と答えましたね。
いつか、落ち着く日がくるのでしょうか。
この瞬間は二度とこないと思うのです。その“いつか”に同じ喜びはあるのでしょうか。
“いつか”のために、伝えたいちいさな気持ちをラベリングして海馬の棚に並べておきたいけれど、私のことばは足りなくて、私の棚は小さくて、とても並べきれやしないのです。

 

 

半年ぶりにあなたを引っぱり出した映画館。ひとつおきのシートに座るなんて、初めての経験です。ポップコーンを買うのに躊躇したのも、初めてでした。
それでも、私は幸せでした。
たとえ触れる肩からぬくもりが伝わらなくても、たとえ耳もとに口を寄せ、湧き出た感情を囁くことができなくても。
エンドロールの監督の名前が消えて客電が灯ったとき、あなたがハンカチをそっとしまうのが見えました。スクリーンを見つめる視界のはしっこで涙をぬぐう気配を察した瞬間、その涙は私の心に溶けていきました。それは決して悲哀に満ちた場面ではなく、主人公の思いが受け容れられた心温まる場面。2週間前にひとりでこの映画を観たとき、同じシーンで私も涙を浮かべていたのです。
断られるのは覚悟のうえだったけれど「あなたともう一度観たいから、いっしょに行こう」と誘って、やっぱり正解でした。
何度観たって映像は変わらないでしょう。それでも、あなたと観ると違う景色が映りました。
バーで感想を共有したあとで、あなたがしみじみと「この映画、またいっしょに観ようね」と言ったとき、たしかに伝わったと思えたのです。

 

ただ、傍らに寄り添っていること。
ただ、並んで同じ景色を感じること。
ただ、五感を共有すること。
そこに、ことばは要らないのですね。

 

 

出会った頃、まだ青かった私にとって、愛とはもっと身勝手で、暴力的なものでした。
好意をことばに変換して伝え、相手の愛を求めること。それが私の愛でした。
家族や友人や恋人に、行動で、ことばで、愛を表現し伝える・・・それこそが愛だと疑いもしませんでした。
かつての私にとって、愛とは“愛するという行為”だったのです。

伝え、求めることはできても、相手の気持ちを手に入れられるわけではない。
そんなことには、こどもの頃から気付いていました。
それでも、私は求めずにはいられなかった。
あなたの“情にほだされやすい”やさしさを嗅ぎ取り、まんまとつけこんだのです。あなたに私を見てほしかった。どんな関係性でもかまわないから、愛してほしかったのでしょう。
人生のなかで、あれだけなりふり構わず誰かを求めることは、後にも先にもないのだろうと思っています。

ことばを交わしていくうちに、私の愛とあなたの愛は形が違うことに気が付きました。まだ出会いから2年も経っていない頃です。
私の愛には形があるのに、あなたの愛には形がないのです。
私の愛には境界線があるのに、あなたの愛は無限で、ふわふわとして見えました。
境界線のないあなたの愛は、私だけではなく多くの人に向けられます。すれ違っただけの誰かにも、通りすがりの犬や猫にも。

その誰かに向けたあなたの気持ちでさえも、私は自分のものにしたかったのです。
私だけを見てほしいと思っていたのかもしれません。いえ、思っていました。
他の誰かを思い出すのではなく、私を思い出してほしい。
他の誰かの名前を呼ぶのではなく、私の名前を呼んでほしい。
そう思っていました。
“求めた”と聞こえのいいことばを使いましたが、それはあなたの気持ちを奪い取り、独り占めしようとする私の幼い欲望でした。
私が愛だと信じていた気持ちは、ただの“欲”に過ぎなかったのです。

あの頃の私は、新聞紙のハリボテをまとったハリネズミでした。
あなたは私のずっと先を歩いていて、私はあなたを見失うまいと必死でした。私はことばが伝わらないように感じて苛立っていましたし、あなたは自分のことばが私に届かないことに戸惑っていましたね。
あなたは振り返ると私の次元まで降りてきて、傍らに寄り添いながら、私をあたため、ゆっくり新聞紙を剥ぎ、欲にまかせて逆立てた針を素手で撫でて慈しみ、私の心の古傷をていねいに洗ってくれました。
同じ景色を見て、同じものを食べ、同じときを過ごし、五感を、心の動きを共有しながら。
心を開いていくうちにあなたの深いぬくもりが私に流れこんできて、私の愛の境界線はやがてゆっくりと滲んで消えていきました。

 

 

昔、私は言いましたね。メールより電話、電話より会うほうがちゃんと伝わるから、会って話がしたいって。
会ってことばを交わすことを、私は求めていたのです。
実は今も、同じことを思っています。
LINEより電話、電話より会いたいって。
でもね、長い歳月を経て、ある意味ことばは要らなくなりました。
ことばで気持ちを定義する必要は、もう、ないのですね。
あなたのことばが私を縛らないように、私のことばもあなたを縛らない。

ひとつおきのシートで同じ物語を観て、心動かされる。
互いの感じたことに寄り添い、心満たされる。
それでいいし、それがいい。

いつのまにか愛は“愛するという行為”ではなく、“ただ、そこにあるもの”になっていました。
求める必要はないのですね。そこにあるから。
これからも私は、あなたに寄り添い、あなたを見守り、あなたを見届ける。

私はただ、感じればいいのですね。
あなたという存在を。
愛というものを。

 

 

それでもやっぱり、会って、限りなく贅沢な“当たり前の時間”のなかで、それを感じたい。

あなたと。

 

 
 


この私設コンテストに参加しています。

■「第三回教養のエチュード賞」開催

 

===2020.11.05 追記===

嶋津亮太さんへ

はじめまして。ちゃんとご挨拶させていただくのは、初めてです。

今回の #教養のエチュード賞 の応募者に宛てた嶋津さんのお手紙、毎日楽しみに拝読しています。

ただ、それだけを伝えたくて、追記として書いています。
だって、ここに書けば、いつか必ず読んでいただけますからね。

171名それぞれの応募作を読み込み、ひとりひとりに宛てて、1000文字の手紙を書く・・・それは、気が遠くなるほどの果てしない道のりに感じます。
言葉が溢れ出てくる手紙も、しぼり出しながら綴った手紙もきっとあるのでしょうね。

手紙ごとに異なる 書き手に寄り添う言葉に、鮮やかな切り口に、美しい日本語に、綴られた嶋津さんの気持ちや考え方に、毎回、ほぅ・・・っとため息をついたり、わくわくしたりしながら読んでいます。

苦しみながらも、精一杯の思いを込めて書き上げたこの作品を、嶋津さんに読んでいただける。そして、見ず知らずの私に手紙を書いていただける。なんて贅沢なコンテストなんでしょう。
嶋津さんの手紙、それはとても大切な宝物になるに違いありません。

思い切って挑戦してよかったです。
お手紙、心待ちにしております。
喜びすぎて、読まずに食べちゃうことのないよう、気をつけますね。

  水野うた

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水野うた
ここまで読んでくれたんですね! ありがとう!