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追悼


「そんな日もあるし、こんな日もあるのよ」

 となりで空を見上げながら、母は言った。どこか遠くへ置くように。
 あの朝の母の声を、今でもはっきりと覚えている。

 

 

 夜明けとともに目が覚めた。寝返りを打ってまぶたを閉じるけれど、脳が活動をはじめている。重い身体を引きずるように、ベッドから抜け出した。

 昨日の服を洗濯機に放りこみ、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。ルーティンでレンタルモップを手にとり、思い直して元の場所へ戻す。
 なんだか呼吸が浅い。まだベッドにいる真希を起こさないように、息をひそめてバルコニーへ出る。

 起きた瞬間から頭を占めているのは、部長との今日の面談だった。聞かれることは解っている。誰にも言えず気づかないふりをしてきた上司の不正。同僚がひとりずつ面談で同じことを聞かれているから、間違いない。知っていた。知っていたけれど、でも。
 明け方のバルコニーの手すりに腕をあずけて、ちいさく息を吐いた。空気は二酸化炭素ばかりで、うまく吸えない。

 真実を語る必要があることは解っているけれど、怖い。出社したくない。
 手すりの腕のなかに頭を入れ、背中を伸ばしながら息を吐ききった。カラスがニ度みじかく鳴いた。

 藍色がうすく伸ばされた先のビル群が、金色に縁取られていく。
 もう目覚めなければいい。そう思った翌日の暁は、胸を締めつける。

 不意に、亡き母の声がよみがえる。
 
 

 

 夕食のすき焼きは、ろくすっぽ喉を通らなかった。もう結果は知っているだろうけれど、父も母もそれには触れない。割り下の煮える音とナイターの実況だけが食卓を満たしている。

 親になんて言おうか、ずっと考えながら帰ってきた。
 県大会は20人。選手権大会は18人。そのはざまに落ちた。
 背番号を剥ぎ取られた不甲斐ない息子は、どんな顔をして帰ればいい? 6年間、毎朝ふたつのお弁当を作ってくれた母、毎晩素振りにつきあってくれた父。毎週末、グラウンドに通ってくれた親に合わせる顔がなかった。
 器に溶かれた生卵が染まる前に、席を立った。何か言おうとしたら泣いてしまいそうで。

 背番号17でむかえた県大会は、ずっとバット引きだった。打者が放ったバットとベンチの間の数メートルを、すべて全力で走った。背番号をもらえず引退試合をした奴らの分まで、出し切ろうと決めていた。
 バットを拾ったその足でホームインしたランナーのヘルメットを預かり、ベンチでそれを片付け、2つ先のバッターに道具を渡す。スリーアウトになった瞬間、戻ってくるランナーにドリンクボトルを手渡し、ヘルメットとグローブ・守備手袋を交換して、キャッチャーのプロテクター装着を手伝う。
 常に、誰が何を必要としているかを観察して、手順を組み立て準備する。コンマ1秒でも速くスタートダッシュを切れるように。頭のなかでシミュレートした選手の動きと手順が一致した瞬間には、鳥肌がたった。
 代打で構わないから、いつかバッターボックスに立ちたい。真剣にそう願い、練習を重ねてきた。

 でも、監督が読み上げた18人に、俺の名前はなかった。

 野球ノートに、日付を書き込んだ。ボーイズの頃から書き続けてきたノートは22冊目。ついに選手じゃなくなった。明日からは、メンバーの練習サポートに回る。
 フォームや監督の言葉や改善点を書いてきたノートに、今夜、俺は何を書いたらいいんだろう。

 タオルケットを脚にはさんだまま、寝返りを打つ。カーテンのすき間から青い光がにじんでくるのを、息を殺して見ていた。開いたままのノートには、変わらず昨日の日付が書いてある。
 いつもなら、早起きした日は外へ出て素振りをする。でも、もうその必要もない。部活はあるけれど、空っぽの今日。

 カーテンを開けて、ベランダへ出る。

 藍のグラデーションの向こう、雲の輪郭を刻々と紅がなぞっていく。朝なんてこなければいい。そう思った夜明けに限って、そのおとずれは鮮烈なのかもしれない。

 寝室から母が出てきた。

「おはよう。めずらしいね。空なんか見て」

「母さん、あのさ」

「ん?」

「俺、ベンチ入れなかったんだ。応援してくれてたのに、ごめん」

 並んで空を見上げながら、母は言葉を置くように言った。

「なに謝ってんの。見てごらん、あのすごい色。そんな日もあるし、こんな日もあるのよ。ほら、もうすぐまた朝日が昇ってくる」

「今日からはもうサポートだから」

「私はね、選手だから応援してたんじゃない。健太を応援してんの。どんな健太でもいい。一生懸命やってきた姿をずっと見てきたんだもん。私もお父さんも誇らしく思ってるよ」

 放射状にひろがるまぶしい矢を見上げる。喉の奥が苦しい。

「今朝の空は格別きれいだね。さぁ、いつもみたいに素振りしておいで。ごはん準備しとくから」

 黄金色の光があふれ出して、思わず目を閉じた。
 あぁ、終わったんだ。
 ノートに書こう。「引退」ではなく、あらたな決意を。
 書いたからといって、やるべきことは変わらない。ただ、縫ってもらうべき背番号がないだけだ。

 昨日までの青春を弔って、またあらたな毎日を仲間と作っていく。
 俺はバットを持って、外へ出た。キッチンから卵焼きの甘い香りが漂ってくる。
 
 

 

「はい、コーヒー。早起きさん」

 目の前に差し出されたマグを受け取って、バルコニーに真希と並ぶ。

“そんな日もあるし、こんな日もある”
 そう言って寄り添ってくれた母は、俺たちの結婚を見届けて、一昨年亡くなった。今夜、仕事が終わったら、久しぶりに父に電話しよう。

 空はめまぐるしく色を変え、やがて夜を押し流していく。
 何があっても夜明けは平等にやってきて、たとえ、どうにもコントロールできない何かに飲み込まれても、また新しい一日がはじまる。

「なぁ、俺、異動になるかもしれない」

「そうなん? 在宅で仕事できるようになったから、私はどこでも大丈夫やで。健太が気持ちよく仕事できるとこなら、どこだって」

 真希の声はやわらかだった。

 マグの香りを胸いっぱいに吸い込む。
 そのコーヒーは、ほのかにキャラメルの香りがした。

 

 

 

 

このちいさな小説は、企画 #はじはじのつづき に参加しています。
シモーヌさんが書いた「はじまりのはじまり」から創作した物語です。
元の文章は、こちら

そんな日もあるし、
こんな日もあるのよ。
眠れぬ朝を迎えたケンタに、
母は空を見上げながら言った。
この朝焼けは
一生忘れないんだろうな、
ケンタはそう感じた。

 (シモーヌ『追悼』)

 

 “追悼”の対象って、人だけじゃなくてもいいよね。

 

ここまで読んでくれたんですね! ありがとう!