秋の気配
空気の手ざわりが思いのほか軽くて、空を見上げました。昨日までの空に青いインクを3滴、レース模様の雲が浮かんでいます。蝉たちはまだまだ元気で、頬はじりりと痛い。
ぼくは日傘をひろげます。紺に白のラインのきみの日傘。これを使いはじめたのは、きみを見送ってひと月ほどのお盆休みのことでした。
はじめてこの傘をひらいたとき、とうとう気が狂ったのだと思いました。立っているその場所に透けるスクリーンを重ねたように、ちがう景色が見えるのです。
濃い緑のすき間からまぶしい光が降りそそいでいます。そのまま映像が横にずれると、ぼくが寝ていました。レジャーシートのうえで顔に本を乗せています。前髪が風にそよいだ瞬間、緑のちいさな球がおでこに落ちたのを見て、ぼくは思い出しました。きみとはじめて行ったキャンプ場の栗の木です。緑のいが栗にはね起きたぼくを見て、きみは大笑いしていたっけ。
次の日には、おむつの袋を持つぼくの手とスポーツサンダル。その次の日には、長ぐつの息子を肩車したぼくと遠くのフェスのステージ。そのまた次の日には、アイスケーキの箱を手にしたぼくが見えました。ろうそくはまだひと袋だから、十年くらい前でしょうか。
はじめは、ひらけるたびに変わる景色が懐かしくて、うれしかったのです。くもりや雨だと出番がないので、晴れを心待ちにしていました。
でもね、その景色に息子とぼくはいるけど、きみがいない。映像のなかにきみを探してしまうのがつらくて、ぼくはやがて日傘を納戸に片付けました。
休みの日も朝はあわただしい。息子のお弁当を作って部活へ送り出すと、洗濯物を干します。午前中は雨が降るらしいので部屋干しです。秋口は降ったりやんだり変な天気で困ります。
リビングの出窓から、雨が糸をひくように遠い路面まで伸びていくのが見えます。よくここから息子を見送っていたきみの後ろ姿を思い出しました。
そのとき、ぼくはようやく気づいたのです。
あの日傘が見せてくれた景色は、きみが見ていた世界だったということに。
日傘を出してきて、リビングでひらきます。ならんでゲームをしている息子とぼくの背中が映ります。閉じてひらくと、豚のしょうが焼きに食らいつく息子の笑顔。すっかりまたうれしくなって何度も繰り返していたら、不思議な光景を見たのです。
ベッドでぼくが寝ています。見たことのないしましまのパジャマで、あごには白いひげの剃り残し、目じりには深いシワが刻まれていました。
これは未来のぼくでしょうか。これは未来のきみが見ている景色なのでしょうか。ぼくにはまだ白いひげは生えていないのですから。
気づいたら、ほおが濡れていました。
いいですよね。誰もいませんから、今日は泣いても。
ぼくはそっと日傘を閉じて、またひらきます。日傘はもう何も映しませんでした。
テレビから天気予報が聞こえてきます。午後からは晴れて残暑がつづくのだそうです。今夜は豚のしょうが焼きを作ろう。そう思いました。息子とぼくのために。
きみが旅立って七週間。
ぼくらの新しい旅がはじまります。
了
==2021.9.22.追記=====
この作品を、こーたさんが朗読してくださいました。
ピリカさん、こーたさん、ありがとうございます。
■ポッドキャスト「ピリカとこーたのすまいるスパイス」
(この作品の朗読は、29分45秒あたりからはじまります)
ここまで読んでくれたんですね! ありがとう!