Forage the Poetry 〜道草を喰う。詩の奏作ワークショップ〜
2024年6月16日日曜日、代々木上原にあるComorisという小さなシェアフォレストにて、"Forage the Poetry 〜道草を喰う。詩の奏作ワークショップ〜 " を開催しました。"Forage(フォレッジ)"というのは、「(食べ物を)採集する」という意味です。
昨年2023年の1年間フィンランドに滞在していたときの小さな出来事をもとに、2本の短編小説を書きました。その小説を題材に、一人ひとりが自分の足元に詩的なものを発見する体験を作り出せないかと考え、今回のワークショップを企画しました。
この企画を通して、「どんなに小さく些細な行動も詩的であり、政治的である」ことを伝えられたらと思っています。下記では、当日の様子とともに、企画の背景などをお話しします。
1. Comorisとは?
会場のComorisは、都市の空き地や遊休地に小さな森をつくり、その場の自然や様々なアクティビティを楽しみながらメンテナンスを継続していくメンバーシップ制のシェアフォレストです。今回のテーマにぴったりな素敵な場所を使わせていただきました。
2. 自分の足元に詩的なものを見つける実践
当日は、都市に生えている野草(雑草)との対話を通じて、自分と土地との関係性から生まれる言葉を奏作(創作)しました。
ワークショップの前半では、フィンランドでの野草採取の経験と、そこから生まれた短編小説『もも色のお茶』を題材に、野草茶をめぐってふたりの幼馴染が問う「わたしの身体と土地の境界線」について、そして誰かを想うケアについて、ともに考えました。
ワークショップの後半では、Comorisのご近所を散策し、自分の気になる野草を採集してもらいました。野草を選んだあと、香りを嗅いだり、触ったり、色の変化を観察したりしながら、感じたことを言葉にしてもらいました。
井坂洋子さん著『詩はあなたの隣にいる』(2015)という本の中に、「詩(Poetry)」について共感する言葉があったので紹介します。
詩だからといって、難しい言い回しや言葉を考えるのではなく、感情を素直に言葉にしてみる実験の場にしました。
散策後、参加者の方はComorisに戻ってくると、ご自身が採集してきた野草を見つけながら、好きな色鉛筆を選んで紙に向かって何かを書きはじめました。生まれた言葉たちは、本当にそれぞれの方の感性や想いが込められた詩になっていて、とてもうれしかったです。
詩というアウトプットを選んだ理由の一つは、自分のプラクティスをシェアできたらいいなと思ったからです。私が去年フィンランドで行っていた"Eco Emotional Footprint"というプロジェクトでは、毎日草木染め日記(Natural dye/ary="natural dye" 草木染め + "diary" 日記を掛け合わせています)をつけていました。それを読んだ何名かの方が、「詩みたいだね」と言ってくださいました。単なる数行の日記ですが、それが200以上集まると「詩」に見えるというのは面白いと思い、それを集団でやってみたら何が起きるのだろうという気持ちがありました。
二つ目の理由は、詩は紙とペン(またはスマートフォン)があればどこでも手軽に書けることです。
スコットランドのA-B-treeプロジェクトの事例では、文学(芸術的実践)と林業(科学的知識)との学際的な関わりにおいて、木に関することば遊びがウェルビーイングや木に関する思考をどのように深めるのかを、詩という方法論を使って研究しています。
3. ケアとしての野草採集
"Forage the Poetry"をやるにあたって大事にしていることの一つは、自らの手で野草を採集することです。私は、自分の手で野草を摘むのが好きです。それは、物理的なつながりを持つ「触れる」という行為が世界を実感する上で重要な役割を果たしていると考えるからです。
視覚や聴覚と比べ、味覚、嗅覚、そして触覚は自分の身体(舌、鼻、肌など)が何かと直接的なつながりを持たなければならず、ときに刺激が強く、危険性が高まる可能性があります。毒を口にしたら体調が悪くなったり、棘をさわれば痛かったりします。
一方、自分の身体と相手の身体を労ったり、気にかけたりするケアの心がなければ野草とのコミュニケーションは生まれないので、私は、棘が刺さろうと、肌がかぶれようと(もちろん手袋などしてなるべく避けますが)、直接自分の手で触ることで会話をして、植物の感覚をつかみたいと思っています。また、野草を採集する際は、「野草を取りすぎない」(自分で持てる分だけ)など、大地に残す、他の人・動物に残す、子孫に残す、というケアの態度も必要です。
4. 都市における小さな抵抗としての野草採集
"Forage the Poetry"は、自然とのつながりだけではなく、日常に隠された支配関係について再考してみる機会でもあります。
4.1 都市で歩くこと
1950年代末から1970年代初頭にかけて活動していた、ギー・ドゥボールを中心としたシチュアシオニストと呼ばれる人たちは、都市で歩くという行為を抵抗の政治性とみなしていました。フランスをはじめとしたヨーロッパ各国で広まったシチュアシオニストは、資本主義に代表されるスペクタルを批判し、それに対抗する日常的な生としての「状況(シチュアシオン)」の構築を目指しました。とりわけ大量消費の舞台となる都市パリに介入し、「状況の構築」「漂流」「心理地理学」というキーワードで、散策活動を行い、文章や地図、映画を残しました(※1)。
シチュアシオニストたちの散策活動について笠置秀紀さん(※2)は、「歩くことによって行政上の地区、産業によって変形された大都市とはまったく別の生きられた地理を浮かび上がらせる」という表現を使っています。私がフィンランドで受けた"Subjective Atlases of Finland"という地図を集団で作るワークショップ形式の授業でも、「感情」や「生きた経験」を大事にしていました。
一方、都市は資本主義の中心地であるとともに、「多様性」のある場所でもあります。経済的に恵まれた(恵まれない)人、高等教育を受けられる(受けられない)人、難民やホームレスの方々などどこかに固定した戸籍がない人など様々な属性の人が、共存しています。また、生物多様性(人以外の動物や植物)に関しても、動物学者のJosef Helmut Reichholf(ヨーゼフ・H. ライヒホルフ)は 著書『Stadtnatur』において、耕作された農村部より都市部の方が富んでいると主張しています(※3)(もちろん、国・都市によりますし、都市の生物多様性を守る取り組みをしているという条件がありますが)。
Google Mapに頼って目的地まで最短距離で移動することばかりを重視するのではなく、「移動すること(歩くこと)」や「都市を観察すること」を目的化すると、都市に埋め込まれている普段は意識しないシステムを批判的にみるきっかけになるのではないでしょうか。
(※1)シチュアシオニスト・シティとしてのパリ : 漂流、心理地理学地図、ドキュメンタリー映画, 滝波, 章弘, 理論地理学ノート, 16, p. 1-21, 2008-12-25
(※2)エクスペリメンタル・フィールドワーク・ガイド, 10+1 website, https://www.10plus1.jp/monthly/2017/04/issue-01.php
(※3)Biodiversity, Urban Green-Blue Grids for resilient cities, https://urbangreenbluegrids.com/thema/biodiversity/
4.2 土地の所有
今回、都市を歩きながら、人為的・政治的・歴史的に確定された境界に抵抗する手段の一つとして、境界線を超えて自由に旅する野草の詩を拾い上げてもらいました。
野草採集は誰にでも簡単にできる行為ですが、日本の法律を遵守しようとするのならば、雑草であっても、本来その土地の所有者に許可を得なければなりません。しかし、時として土地の境界線は、植民地支配など暴力や権力によって不公正に決められ、現在もその状況は続いています。
私が過去住んでいた沖縄県では米軍基地のために多くの土地が使用されています。自分がまさにその米軍基地の調整という仕事をし(詳細はプロフィールをご覧ください)、土地の所有と、政治と、経済と、感情との複雑なもつれにやるせなさを感じてきたからこそ、このテーマに「植物」という視点から自分なりに応答しているのかもしれません。
そもそも私たちは本当に土地を「所有」することはできるのでしょうか?下記は、ブラジルの詩人、作家、教師、政治活動家であるAntônio Bispo dos Santosさんの言葉です。
私にとって野草を採集する行為は、確定された境界線の正当性や、現在の所有をめぐる不公正に対するささやかな抵抗でもあります。さらに、好きな場所に移動する自由や、人間以外のものたちの生存するスペースの確保に関する問題提起でもあります。
一方、フィンランドでは、”Everyone’s right" という自然享受権があり、私有地であっても、プライバシーや自然を侵害しない限り土地の所有者に許可なく土地に入り、キノコやベリーを採集したり、森林浴したり、魚釣りをしたりする権利が法律で守られています。そのため、フィンランドの森では、夏のベリー採集や秋のキノコ採集がとても人気なアクティビティです。
しかしそんなフィンランドにおいても、ベリーやキノコ以外の「普通の野草(雑草)」に関しては、あまり関心がなかったり、知らなかったりする人が多いです。"Forage the Poetry"では、普段は見過ごされてしまう野草たちにスポットライトを当て、土地の声を聴いていきます。
5. 個人から集団へ:社会的な振付
今回はワークショップ形式で参加者の方を募集し、集団で野草採集を行いました。ワークショップという言葉は元々、「作業場」「工房」という意味ですが、現在では対話や共同作業をする場や、体験型のものづくりの機会として広く使われています。
なぜワークショップ形式にしたのかというと、参加者個人レベルでの効果として、直接的な体験(今回だと野草採集)をすることで、自分の身体を通して他者の身体性やそこから派生する思考を想像しやすくするのではないかという理由です。
また、集団レベルでの効果としては、小さな社会運動を起こす社会的な振付としての側面があります。例えば、郊外の山で一人でや野草採集していたら、食べるために山菜を摘んでいるのかなと思われるかもしれません。しかし、都心の真ん中で大勢の大人がコンクリートの間に生えている雑草を詰んでいたら、とても不思議な光景に見えます。これこそが、個人よりも大きい集団(コレクティブに)で行動する政治的な力になりうると考えています。
「社会的振付(choreography)」という言葉は、フィンランドのアアルト大学で受けたTina Mariane Krogh Madsenによる"Activism, Civil Engagement, and Art(アクティビズム、市民参画、アート)"という授業からインスピレーションを受けました。
「ある場所に刻み込まれた振付(身体の使い方やジェスチャー、行動)を変化させるために、身体はどのように使われるのだろうか?」や「どれだけ多くの人が『変な行動』をしたら、その行動が『普通に』なるのか?」という問いへの私なりの応答の一つが、集団的な野草採集です。
6. 今後の計画
いろいろと小難しいことを書いてしまいましたが、"Forage the Poetry"は純粋に、野草が好き、採集が好きだからやっています。今後も日本、世界各地で少しづつ形を変えながら、例えば、詩人やデザイナー、植物学者、生態学者、都市学者などさまざまな方と協働して発展させていきたいと思っています。
コラボレーションにご興味のある方はお気軽にご連絡いただけましたら大変幸いです!
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