見出し画像

『推し、燃ゆ』は現代日本の信仰を表す?読書感想文

「高橋源一郎の飛ぶ教室」というラジオ番組がある。取り上げられる書籍は気になるのが多く、毎週楽しみにしている。そこで芥川賞受賞作として『推し、燃ゆ』が紹介された。朗読を聞いて天才だと思ったのは三島由紀夫以来だ。

出だしがすごい。「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい」

元JKの主人公はアイドルの追っかけをしている。しかし、推しはファンとトラブルを起こし、ほどなく解散、引退してしまう。生活の中心であった推し活が奪われ、己を形成していた人格すら、推しを研究し理解しようと努める中で培われたものだと気づいた。器用に生きられない女の子と器用に生きることに疲れたアイドル(推し)の、全く交わることのない(文字通り)、しかし、強くリンクしている二人の破滅と再生の物語。

主人公の住む世界は些か窮屈そうに見える。ヒステリックな母、母を恐れ常に顔色をうかがう姉、単身赴任で家におらず部外者然として威厳のない父。
理解者はおらず、部屋にしつらえた祭壇に鎮座する推しが唯一の心の支えだ。推しのイメージカラーで彩られた青い空間が、重く汚らしい人の営みの中で軽やかに美しく輝いて見える。
学校に通って勉強ができず退学、バイトで資金調達するも要領よくできずクビ、家を追い出されるも同然で祖母の家を任されるがうまく自活できない。日常生活は容赦なくリアルで、人間の生命機能上の穢れと肉体を持つが故の重さを突き付けてくる。

終盤で、主人公の推し活はアイドルに恋しているとか、私を見て欲しいとか、歌や演技が好きとか、そういったことよりも、推しの内面を推し量ることで同一化していくことを求めていた事に気づく。
彼は自分をロール(役割)に押し込めた芸能界と、アイドルとしての自分をも憎んでおり、復讐する機会を伺っていた。アイドル(偶像、アイコン)としての自分を殺すことで、人として生まれ直すことを望んでいたのだ。彼を理解し、自分の中に憑依させたことにより、生きる意味を失った主人公もまた一度死に、再び生まれ直すことができた。
吹っ切れた主人公は成長し、不器用ながらも昨日よりも少し、したたかにずるく生きられるようになったように見えた。

これもう殆ど神話だろ。

神(教祖も含む)の御心をおもんぱかり、ある者は彼らの言葉を書き留め、ある者は彼らの姿を絵や像に起こし、ある者は寵愛を受けるために無茶な修行に身を置き、ある者はその愛を証明するために手を血で染めた。現代の推し活もこれと似ている。「布教」という言葉も現代では、熱心なファンが己の良しとするコンテンツに勧誘する時に使うのが一般的(?)だろう。なんちゃら教の教徒とアイドルの追っかけは≒の関係じゃないか?と説いて見せたわけだ。『神は死んだ』とある哲学者は言った。しかし、現代日本で信仰が失われることは無かったのである。この煉獄の世界で重い身体を引きずって生きざるを得ない我ら凡夫が、何を心の支えにしようと良く生きられればそれでいいじゃない、と。
宇佐美りんを令和のドストエフスキーというのは言い過ぎだろうか?


読書中の感想はとにかく、生命エナジーがすごい!文章からむせかえるような生の息吹が感じられる。例えば、日本料理で踊り食いというものがある。普通は食う方が強く、食われる方が弱いのだが、『推し、燃ゆ』の場合は逆で、読まれる側の本の方が生きているまである。皿の上の生きた肉やらモツやらが食ってみろとばかりに口の中に押し入って来る。読むのもつらいのだ。お腹いっぱいになって今日はここまで、というのを繰り返しながらちょっとずつ読んだ。実質満漢全席だ。

欠点は後半のパワーダウンだ。口の中に生きた肉を放り込んでおいて、暴れて人の心かき乱しといて、ラストはあまりにもアッサリしすぎだろwあれだけのパンチのあるもの食わせておいて「デザートは綿あめです。食べたら帰ってください」そう言われたような肩透かしをくらう。
ちょうどそれは主人公と推しの死が起点となっているので、作者が意図的に死後の世界をイメージしたからではないだろうか。神話なのでそこからの復活劇が予想される・・・というところでお話は終わる・・・。

作者本人も、締め方に納得いってないそうなので、次回作に期待ですね。いやー、恐ろしいものを読まされた。リアリスティックで力強い表現に目が行きがちだが、声に出した時にスーっと入って来る音のきれいさがある。第一印象で三島っぽいと思ったのはその辺にあるんじゃないかな(三島由紀夫読んだことないけど)。宇佐美りん、目が離せない作家だ。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?