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連載日本史112 戦国時代(3)

上杉謙信は、もともとは越後の守護代であった長尾氏の出身であり、長尾景虎と称していた。戦国大名の中には長尾氏のように、守護代からそのまま大名になるパターンが散見される。これはいわば、地方の支店を任された支店長が、そのまま独立して社長になったようなものである。景虎は越後の春日山城に拠点を置いて、北陸から北関東にまで勢力を広げていたが、そこへ北条氏康に追われた関東管領・上杉憲政が逃れてくる。憲政と養子縁組をした景虎は、関東管領の後継者を自称し、後に上杉姓を名乗るようになった。

上杉謙信像(Wikipediaより)

謙信は戦術家として非常に優れた才能を持っていたようだ。七十近くもの合戦を経験しながら、負けたのは二回だけという説もある。一方、政治的野心は薄く、1559年には上洛して十三代将軍義輝や正親町(おうぎまち)天皇にも拝謁しているが、自分が将軍になりかわって天下に号令しようという動きにはならなかった。どちらかと言えば、職人気質の武将であったのだろう。そういうところが、ライバルの武田信玄の窮状を救うために「敵に塩を送った」という伝説に結びついたのだと考えられる。

川中島古戦場史跡公園(ながの観光netより)

その謙信の好敵手として、数次にわたる川中島の合戦を戦った甲斐の武田信玄(晴信)は、今川氏同様、守護大名から版図を広げた戦国大名である。ただし、信玄は父親の信虎を追放して権力を掌握しており、そういう点では一族の中での下剋上を経た武将であると言ってもいいだろう。彼は甲斐を拠点として、信濃・遠江・駿河にも勢力を拡大した。武田氏と今川氏は、信玄の長男義信と今川氏真の妹との政略結婚によって関係を結ぶが、1565年に義信の謀叛が発覚、さらに今川・上杉の秘密外交が露見し、武田・今川は全面対決の形になる。信玄は三方ヶ原で織田・徳川連合軍とも戦っており、命からがら敗走する徳川家康が脱糞したというエピソードも残されている。「風林火山」を旗印とした武田軍団は当時最強と言われ、周辺諸国の武将たちから恐れられた。

武田信玄像(甲府市HPより)

信玄は治水事業や鉱山開発にも力を入れた。甲斐国では信玄の開いた鉱山からの金で鋳造した甲州金と呼ばれる金貨が江戸時代まで流通した。甲府の釜無川扇状地には、信玄の築いた堤防である信玄堤(しんげんづつみ)が今も残る。甲府盆地には信玄にまつわるエピソードが数多く、いかに彼が領国の民にとって特別な存在であったかを示していると言える。

信玄堤(霞堤)の仕組み(yamanashinouta.comより)

謙信にせよ、信玄にせよ、著名な戦国大名たちは、いわば地元のヒーローなのだ。在京が基本で領国には時々顔を出す程度であった室町前期の守護大名とは、地元愛の点では比較にならない。全国制覇を狙った信玄は志半ばで病に倒れたが、甲府盆地における信玄人気は、今もなお時代を越えて受け継がれているのである。





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