連載日本史265 沖縄返還
1971年、沖縄返還協定が調印され、翌年5月に、戦後27年間にわたって米国に占領されていた沖縄の日本復帰が実現した。サンフランシスコ平和条約では沖縄は米国の施政権下に置かれるとされており、「琉球政府」には一定の自治が認められてはいたものの、最終的な意志決定権は米国に握られていたのである。朝鮮戦争やベトナム戦争の後方基地として、米軍は沖縄本島に次々と基地や軍事施設を建設した。米軍兵士による悪質な事故や犯罪なども相次ぎ、1960年には沖縄県祖国復帰協議会が結成され、日本への早期返還を求める運動が高まったが、米国がベトナム戦争に深入りしていた60年代には米国政府はそうした声を顧みることはなかった。
1969年に佐藤首相とニクソン大統領の間で日米首脳会談が行われた。前年の大統領選挙で、ベトナムからの米軍の撤退を公約に掲げて当選したニクソン大統領は、戦争の終結を見越して、安保条約の自動延長と引き換えに沖縄返還を約束した。だが、当時の琉球政府主席の屋良朝苗や多くの沖縄県民の期待とは裏腹に、沖縄の米軍基地は返還後もそのまま残されることになった。当時の米国にとって、ソ連や中国や北朝鮮などの社会主義国に対する防波堤として、沖縄は手放すことのてきない軍事的拠点であったのだ。
「核兵器を作らない、持たない、持ち込ませない」という非核三原則を国是とした佐藤内閣は、「核抜き・本土並み」の沖縄返還の実現を謳い、佐藤首相は後にノーベル平和賞を受賞したが、実際には米国との密約で核兵器の持ち込みを黙認していたことが、その後の情報公開で明らかになっている。また、積極的な公共投資によってインフラ整備は本土並みに進んだものの、産業の育成は遅れ、県民所得の面では長らく全国最下位が続いた。ここにも、沖縄本島の面積の二割近くを占める米軍基地の存在が影を落としていると言えよう。
太平洋戦争で本土の盾となって、地上戦で大きな犠牲を出した沖縄。戦後は四半世紀にわたって占領下に置かれ、日本復帰後も安保条約と日米地位協定の下、米軍基地負担の重さに苦しんできた。日本における米軍専用施設の実に74%が沖縄に集中している。この現実を無視して日米同盟を手放しで肯定することはできないだろう。国家の安全保障はもちろん大切だが、その陰で日常の生活の安全を脅かされている人々がいるという事実も忘れてはならないのだ。
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