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ローマ・イタリア史㉘ ~三国同盟と第一次世界大戦~

19世紀後半に再統一を果たしたイタリアは、ヨーロッパで台頭しつつあった帝国主義の流れに乗ろうとする。イタリア対岸のチュニジアを保護国化したフランスに対抗するため、1882年にドイツ・オーストリアと秘密軍事同盟としての三国同盟を締結。一方、フランスは20世紀に入ってイギリス・ロシアと三国協商を成立させて勢力均衡を図った。高揚するナショナリズムを燃料とした列強のパワーゲームは一触即発の危機を孕みながら沸騰していく。

ただし、パン=ゲルマン主義で結束していたドイツとオーストリアに比べ、イタリアには両国への連帯意識は薄かった。また、イタリアとオーストリアの間にはトリエステと南チロルに関する領土問題(いわゆる「未回収のイタリア」問題)が横たわっており、次第に同盟内部の軋轢が露わになっていった。1911年、アフリカでの植民地獲得を目指すイタリアはオスマン帝国に宣戦布告してトリポリ・キレナイカを占領。両地域をリビアとして統合し、自らの支配下に置いた。リビアはかつて古代ローマ帝国の属州であったとはいうものの、1500年も前の話である。オスマン帝国の弱体化につけこんだ明らかな侵略戦争であった。

オーストリアとの対立の火種となった「未回収のイタリア」も、あくまでイタリア側の立場から見て「未回収」というだけの話である。南チロル地方の北部ではドイツ語系住民が大多数を占め、トリエステにはスロベニア系住民が多かった。それでも「回収」にこだわったのは、やはり往時のローマ帝国の栄光がイタリアのナショナリズムを支えていたからではないのかと思ってしまう。

1914年の第一次世界大戦開戦の翌年、イタリアはイギリスとロンドン秘密条約を結び、戦後の「未回収のイタリア」をイタリアが領有することを条件に三国同盟を離脱して協商国(連合国)側につくことを密約したのであった。イタリアの寝返りとアメリカの参戦もあって大戦は連合国側の勝利に終わった。戦後のベルサイユ会議において、イタリアは「未回収のイタリア」(南チロル・トリエステ)の領有に加えてオーストリア領の更なる割譲を求めたが、そこまでは認められず、まもなく成立したサン=ジェルマン条約で南チロル・トリエステの領有のみが認められた。初期の目的は達したものの、戦勝の成果が期待したほどではなかったという不満がイタリアのナショナリズムに火をつけ、やがてファシズムの台頭へとつながっていく。この辺りの事情も、日露戦争で賠償金が得られなかったことで暴動になった日本と共通するところがありそうだ。植民地獲得競争に遅れて参入した「持たざる国」の歪んだナショナリズムは、次なる大戦への火種となっていくのである。

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