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連載日本史145 三都(2)

江戸時代の大坂は「天下の台所」と呼ばれた。それは大坂が、米をはじめ、全国の一次産品が集積する場所であり、そこから加工された品々や、換金された貨幣が全国に出ていくという、いわば経済のハブ(車軸)としての役割を果たしていたからである。

江戸時代の大坂地図(大阪市立図書館HPより)

堂島川と土佐堀川に挟まれた中之島周辺には各藩の蔵屋敷が置かれ、年貢米や各地の特産品などの「蔵物」が運び込まれた。そこで蔵元・掛屋・札差(蔵宿)と呼ばれる商人たちが売却を一手に引き受け、それを元手にした金融業も営んで多額の利益を得ていたのである。市内には東横堀・西横堀・京町堀・立売(いたち)堀・長堀・道頓堀などの運河や川が縦横に走り、商品を積んだ船が所狭しと行き交っていた。大坂湾に注ぐ安治川の河口では、江戸と大坂を往来する菱垣廻船・樽廻船の蔵が立ち並び、海上交通の一大拠点となっていた。

大坂の水上交通(suito-osaka.jpより)

大坂が経済の中心としての地位を確立する契機となったのは、やはり豊臣秀吉がここに本拠を置いたことだろう。経済感覚に優れた秀吉は、淀川と瀬戸内海に面し、京都と全国各地を結ぶ水上交通の要となる大坂の地の利を熟知していた。それゆえ豊臣家が滅んだ後も、幕府は大坂の統治には腐心した。大坂城には将軍直轄の大坂城代が置かれ、大坂在勤の諸役人だけでなく、西国の大名たちの監視にもあたった。また、江戸と同様に二人の町奉行が置かれ、民政・消防・警察・徴税・商人統制などの実務にあたった。大坂城代は老中へのキャリアアップのための重要なポストと見られていたという。幕府がそれだけ大坂を重要視していたということだろう。

大坂の蔵屋敷(コトバンクより)

都市としての大坂の経済力は江戸をしのぎ、十八世紀後半には、江戸の問屋仲間が十組であったのに対し、大坂には二十四組の問屋仲間が公認されていた。まさに商人の町である。

江戸時代の物流(岡崎哲二「江戸の市場経済」より)

明治維新の際、大久保利通は大坂遷都を提議したという。結局、新首都は東京となり首都大坂は幻に終わったが、もしも利通の提案が実現していたら、大坂城に皇居が置かれ、中之島あたりに国会議事堂が建てられ、大阪弁が標準語になっていたかもしれない。

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