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バルカン半島史⑦ ~ペリクレス時代~

紀元前461年から429年まで、32年もの期間にわたって議員の地位にあり、前443年からは毎年将軍職(ストラテーゴス)に選出されてアテネ民主政の第一人者として活躍したペリクレスは、在任中に数々の改革を実施し、アテネの黄金時代を築き上げた。当時の議員の任期は1年であるから、31期連続当選を果たしたことになる。現代の政治家から見れば垂涎の的であろう。

彼の行った改革の中でも特筆すべきは公務員への給与支給である。今となっては当たり前のことだが、ペリクレス以前の民主政では公務は無償の奉仕であって無給が原則とされていたのだ。これでは十分な資産を持たない者は生活ができないため、公務に就けないことになる。事実、抽選で選ばれる役人や陪審員においては、資産を持たない者は選ばれても辞退することが多かった。結果として公務に携わることができるのは十分な資産を持った裕福な市民ばかりになる。ペリクレスは公務員の生活を保障することで、資産を持たない者にも政治参加の道を保障し、理念としての民主政に経済的な裏付けを与えたのだ。

一方で彼は、前451年の市民権法によって、市民の定義を厳格にした。両親ともがアテネ人である男子のみをアテネ市民として認めるというのである。その背景には、ペルシア戦争以後、ギリシャ随一の経済的な豊かさを享受した国際都市アテネに、急速な外部からの人口移入が起こったことがある。現代で言えば、豊かな国に移民が集中する現象である。ペリクレスは経済面では移民流入の意義を認めながらも、政治面では市民の資格を厳格にし、ハードルを上げたのだ。彼にとって民主政とは、政治理念であると同時に、アテネの国力を高めながらその地位や権益の安定を維持するための現実的な手段であったのだとも言える。

ペリクレスは公共事業や文化保護にも熱心に取り組み、パルテノン神殿の再建や演劇祭の開催など、ギリシャ文化の発展にも尽力した。彼が前人未到の連続当選を果たしたのは、こうした多方面にわたる精力的な活動もさることながら、人心を掌握する演説の名手であったことも大きい。一例として、アテネ民主政についての彼の演説を引用してみよう。

「我々の政体は他国の制度を追従するものではない。人の理想を追うのではなく、人をして我が範を習わせるものである。その名は、少数者の独占を排し、多数者の公平を守ることを旨として、民主政と呼ばれる。わが国では、個人間に紛争が生ずれば、法律の定めによってすべての人に平等な発言権が認められる。だが一個人が才能に秀でていることがわかれば、無差別なる平等の理を排し、世人の認めるその人の能力に応じて公の高い地位が与えられる。たとえ貧窮に身を起こそうとも、ポリスに益をなす力を持つ人ならば、貧窮ゆえに道を閉ざされることはない。われらはあくまでも自由に公に尽くす道を持ち、日々互いに猜疑の目を恐れることなく自由な生活を享受している。隣人が己の楽しみを求めても、これを怒ったり、あるいは実害なしといえども不快を催すような冷たい視線を浴びせることもない。私の生活において、われらは互いに掣肘を加えることはしない。しかし、公に関する時は、法を犯す振る舞いを深く恥じる。時の政治を預かる者に従い、法を敬い、特に侵された者を救う掟と、万人に廉恥の心を呼び覚ます不文の掟とを、厚く尊ぶことを忘れない。」

ここには(女性や奴隷や外国人は「市民」に含まれていなかったにせよ)、機会の平等、法治主義、遵法精神、個人の自由、能力主義、精神的不快をも含む他者危害の原則、私権の尊重と公益のバランス、道徳意識の涵養など、現代にも通じる民主主義の基本理念が端的に述べられている。同時にまた、ペリクレス自身も深く自覚していたであろう、民主政における「言葉の力」をも、強く感じずにはいられないのである。

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