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連載日本史142 元禄文化(2)

江戸時代には実用的な学問も多方面に発展した。薬用の本草学・博物学では貝原益軒が「大和本草」で日本の動植物や鉱物を分類して解説し「養生訓」で健康法を広めた。医学では漢方医の山崎東洋が「蔵志」で日本最初の解剖図を示した。農学では宮崎安貞の「農業全書」が、各地の農業技術の向上に大きな役割を果たした。

養生訓(Wikipediaより)

かつてベストセラーになり、映画化もされた冲方丁氏の「天地明察」は、初代天文方として平安時代の宣明暦の誤差を修正し、「貞享暦」を作成した渋川晴海(安井算哲)の物語である。彼は和算による代数・図形の計算式や解法をまとめた「発微算法」を著した数学者の関孝和とも親交があったらしい。数学では他にも吉田光由が「塵劫記」で和算の基礎や測量・体積計算の方法などを日常的な例題を用いて解説している。こうした学者たちの努力は、庶民も含めた日本社会全体の知的レベルの向上に大きく貢献した。

松尾芭蕉(WIkipediaより)

国文学の世界では、契沖が後の国学に連なる「万葉代匠記」を著し、日本の古典研究に新たな境地を開いた。幕府の歌学方であった北村季吟も、「源氏物語湖月抄」や「枕草子春曙抄」で古典注釈の充実に寄与している。季吟のもとで俳諧を学んだ松尾芭蕉は、言語遊戯とみなされていた俳諧に芸術性を見出し、俳文紀行である「奥の細道」や「野ざらし紀行」を著して焦風俳諧を確立した。一方、西山宗因は滑稽を旨とした談林俳諧を確立し、彼の一門からは井原西鶴が出た。西鶴は浮世草子(小説)の世界で頭角を現し、「好色一代男」や「日本永代蔵」などで町人の暮らしを面白おかしく描いた。

井原西鶴(WIkipediaより)

出雲の阿国のかぶき踊りから始まった女歌舞伎は、風紀を乱すとして1629年に禁止になり、若衆歌舞伎が演じられるようになったが、それもまた1652年に禁止になったため、現代同様、男だけで演じる野郎歌舞伎が成立した。荒事の市川団十郎、和事の坂田藤十郎、女形の芳沢あやめなどが人気役者として活躍した。浄瑠璃の世界では、三味線と操り人形の結合による人形浄瑠璃が好評を博し、「曽根崎心中」や「冥途の飛脚」などの人気作を連発した脚本家の近松門左衛門と、語り手の竹本義太夫が一世を風靡した。

曽根崎心中(www2.ntj.jac.go.jpより)

概観してみると江戸時代の学問には実用色が強く、一方で芸術との結びつきも深い。中世までの芸術が宗教と深く結びついていたのとは対照的である。ここにも宗教と学問の地位の逆転が見て取れるだろう。また、学問における実用志向は、現代の日本にも受け継がれているようだ。書店に行けば所狭しと並ぶ実用書・ハウツー本の数々、TVでひっきりなしに流れる健康番組、こうした風潮の源流は江戸時代にあるような気がする。

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