連載日本史⑳ 大化の改新(3)
大化の改新において、中大兄皇子と並ぶ、もうひとりの立役者が中臣鎌足である。むしろ首謀者と呼んでもいいかもしれない。蘇我入鹿とともに留学僧の旻(みん)の門下に学んだ鎌足は、入鹿に次ぐ秀才であったという。(ということは、入鹿も単なる親の七光りなどではなく、かなりの力量を持った人物であったということだ。)
権勢を誇る蘇我氏を倒そうとした鎌足は、最初は軽皇子(後の孝徳天皇)に近づくが、共にクーデターを実行するだけの力量に欠けると判断し、若い中大兄皇子に白羽を立てる。蹴鞠の会で皇子に接触した鎌足は、蘇我氏の傍流である蘇我倉山田石川麻呂を仲間に引き込み、秘密裏に計画を進め、乙巳の変での入鹿暗殺を成し遂げたのである。
その後も、鎌足は政権内で、中大兄皇子の腹心として縦横無尽に働いた。後世の潤色も若干はあろうが、公地公民・班田収受などの新政府の施策の数々は、主に鎌足が制度設計を行ったものであると思われる。クーデターの成否は、政権交代後のビジョンと具体的な施策が、どこまで見通せているかによって決まる。中大兄皇子のフィクサーとして裏方に徹しながら、鎌足は新政府の中枢的存在として、自身の構想を具現化しながら、権力基盤を着実に固めていった。
後世の藤原氏の隆盛を見ると、その祖である鎌足には、自分の一族子孫に権力を独占継承させる野心を持っていたかのように見えてしまうのだが、大化改新前後から彼の死までの足跡をたどってみると、あまりそうした欲望が感じられないのだ。地位や権力への野心というよりは、自分の描いた国家運営のビジョンを何とか実現したいという、プロデューサーとしての願望が強かったのではないか。そのための役者として、中大兄皇子はうってつけであった。一方、猜疑心の強い皇子にしてみれば、地位や権力への執着の薄い鎌足は、安心して実務を託せるパートナーだったはずだ。
歴史は人がつくる。多様な個性を持った人々が出会い、さまざまな化学反応を起こしながら動いてゆく。個人としての能力であれば、鎌足よりも入鹿の方が優れていたのかも知れない。逆に、入鹿は傑出した能力を持っていたからこそ、自己を過信し、身を滅ぼしたのだとも言える。鎌足の成功は、自他の能力や適性を冷静に分析し、必要に応じて他者の個性や能力をも組み合わせながら複雑なプロジェクトを辛抱強く組み立てていくプロデュース能力の賜物であったと思えるのだ。
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