連載日本史63 院政(4)
1158年、後白河天皇は息子の二条天皇に譲位し、上皇となった。白河・鳥羽に続く、後白河院政が始まったのである。後白河院の側近である信西と結んだ平清盛は、播磨守・大宰大弐の地位を歴任し、瀬戸内・北九州をルートとする日宋貿易に本格的に乗り出した。清盛は鳥羽院政の時代には安芸守として瀬戸内海に厳島神社の社殿を築造し、港の整備に力を入れ、宋から銅銭を大量購入して貨幣経済の普及と貿易の活性化を図っていた。このように、もともと彼には貿易立国の構想があり、それを信西が強力に支援したわけだ。
一方で、それを快く思わない人々もいた。平治の乱後の恩賞に不満を持っていた源義朝、それに後白河院の側近のひとりで、かねてから信西に反感を持っていた藤原信頼である。二人は結託し、武力による権力奪取を企てた。
1159年の暮れ、清盛を含む平氏一門が熊野参詣で都を留守にした隙をついて信頼と義朝は院の御所を襲撃し、後白河院と二条天皇を幽閉した。平治の乱の始まりである。信西は自害に追い込まれ、清盛は急ぎ帰京するが、上皇と天皇が敵の手中にあるため手が出せない。清盛はふたりの奪還を計画し、まず内通者を使って二条天皇を女装させ、自邸へと脱出させた。さらに後白河院の奪還にも成功した清盛は、院から信頼追討の院宣を得て、六条河原の合戦で信頼・義朝連合軍を撃ち破る。信頼は斬首され、義朝は敗走中に謀殺された。
義朝の長子である源頼朝は殺されるはずだったが、清盛の継母である池禅尼の助命嘆願によって伊豆配流となった。また頼朝の異母弟である義経(幼名牛若)は、母の常盤御前が清盛の愛人となったために命拾いしている。このふたりが後に平家打倒の原動力となっていくのだが、当時の清盛には知る由もない。
平治の乱が後世に残した重要な遺産は、天皇を確保した方が勝つ、という教訓であろう。清盛に勝利をもたらす転機となったのは、二条天皇・後白河院の奪還であった。天皇を擁した方が大義名分を得て官軍となり、相手方は賊軍として追討の対象になる。武力と権威が、戦を勝利に導くための必須のツールだ。この教訓は人々の潜在意識に刷り込まれ、平治の乱から七百年を経た幕末の戊辰戦争においても適用されることになるのである。
白河・鳥羽・後白河の三代にわたる院政は、保元の乱・平治の乱という武力闘争を経て、武士の政権中枢への急激な進出をもたらした。平治の乱に勝利し、武家のトップに立った平清盛は、やがては院をしのぐほどの独裁権力を手にしていく。かつて「王家の犬」と蔑まれてきた武士たちが、王家を支配する時代が目前に迫っていた。
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