見出し画像

連載日本史178 明治維新(2)

明治維新において「攘夷」が封印された分、「尊皇」は徹底して前面に押し出された。室町時代以降、幕末に至るまで、政治の表舞台から遠のき、ほとんど忘れ去られたような状態であった天皇は、強力な中央集権を志向する明治政府の求心力として、にわかに圧倒的な存在感を帯び始めたのである。

版籍奉還・廃藩置県の流れ(buhitter.comより)

1869年1月、薩長土肥の四藩主が版籍奉還を願い出た。これは各藩の所有していた版(領地)と籍(領民)の朝廷への返還を意味し、新政府の木戸孝允・大久保利通によって計画されたものである。新政権の中核になった四藩が率先して領地と領民を返上することで、全国諸藩に同様の動きを促したのだ。6月には全国の藩が版籍奉還に応じ、旧藩主は知藩事に任命された。戊辰戦争で新政府の軍事力を見せつけられた直後とはいえ、全国の藩が領土と領民の返還に応じたのは、やはり天皇の名の下に行われた改革であったという理由が大きい。

廃仏毀釈で破壊された石仏(Wikipediaより)

版籍奉還の直後に行われた官制改革では、祭政一致・天皇神格化の方針がいっそう明確になった。太政官から神祇官を独立させ、天皇を頂点とした神道国教化をさらに強力に推進したのである。前年には既に神仏分離令が出され全国で廃仏毀釈の運動が起こっていた。神官の指導により、多くの仏像が焼かれ、多くの寺院が廃寺となった。仏教伝来以来、営々と築かれてきた神仏習合の流れが、わずか数年で全否定されたのである。国家神道とは明治政府の政策で強引に作られたもので、日本の伝統でも何でもなく、むしろ伝統の破壊の上に成り立ったものだったのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?