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連載日本史⑱ 大化の改新(1)

聖徳太子と蘇我馬子の死後、馬子の直系の子孫である蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)親子は権力の中枢を握り次第に専横を強めるようになった。推古天皇の死後、蝦夷は蘇我氏と縁の深い舒明天皇を強引に即位させ権勢をふるった。舒明天皇が死去すると皇后であった宝皇女を皇極天皇として即位させ、蘇我親子の専横は更にエスカレートしていく。自分たちの陵墓の築造のために多くの民を勝手に動員し、父から子への官職の受け渡しも、天皇の許しを得ずに独断で行った。蝦夷から大臣の職を譲り受けた入鹿は、遂には聖徳太子の息子で次期天皇の有力候補であった山背大兄王を攻め滅ぼしてしまった。さすがに入鹿の暴挙には、父親の蝦夷も驚いたようだ。独裁権力が世襲で継承されていくと歯止めが利かなくなるのは、昔も今も同じである。

乙巳の変(江戸時代の住吉如慶・具慶による大和絵)

蘇我氏を倒して権力を奪取しようと企てたのが、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)である。二人はひそかに入鹿暗殺を計画し、朝鮮からの外交使節謁見の場で、入鹿を斬殺してしまった。いわゆる「乙巳(いっし)の変」である。共謀者は何人かいたのだが、いざ暗殺となると萎縮してしまい、結局、皇太子である中大兄王子が直接手を下して入鹿を斬り殺したという。皇極天皇は入鹿暗殺計画については全く知らされておらず、目の前で息子が大臣を斬殺する衝撃的な場面を目撃する羽目になってしまった。入鹿の首塚は今も飛鳥寺の跡地に残っている。入鹿が殺されたことを知った父親の蝦夷は自害し、蘇我氏は権力を失った。一方、暗殺計画の中心人物であった中臣鎌足一族は、中大兄皇子の知遇を得て「藤原」の姓を受け、奈良時代から平安時代にかけて、権力の中枢へと、のし上がっていくことになる。

蘇我入鹿首塚(奈良県観光HPより)

一般に乙巳の変に始まる大化の改新によって、日本は中央集権国家への道を歩み始めたというイメージでとらえられがちだが、これは奈良時代になってから編纂された日本書紀の記述によるものであって、実際にはかなりの脚色を入れて、いわば後付けで美化されたイメージであることが、近年の調査や研究で明らかになってきている。実際、前世紀に蘇我氏が物部氏を滅ぼした時点で中央集権か地方分権かという路線対立はカタがついており、聖徳太子と蘇我馬子の時代には既に憲法や冠位などの制度も整えられていたわけだ。蘇我親子と中大兄皇子・中臣鎌足の対立軸は、集権か分権かではなく、既に集中が進みつつあった国家権力の中枢を誰が握るかという権力闘争にすぎなかったのではないかと思われるのである。

「日本書紀」における「大化の改新」の記述(国立公文書館所蔵)

それではなぜ日本書紀は単なる権力闘争をそこまで美化する必要があったのか。それはやはり大化の改新が暗殺という非合法的手段によって為されたものであるからだろう。日本書紀の成立は奈良時代、その編纂には鎌足の子孫である藤原不比等(ふひと)が深く関わったとされる。自らの権力基盤の正当性を主張するためには暗殺の大義名分を明確に示す必要があったのだろう。公式に残る歴史は、常に勝者の歴史なのだ。





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