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連載日本史㉙ 飛鳥・白鳳文化(2)

飛鳥文化の象徴を法隆寺とするならば、白鳳文化の象徴は薬師寺であろう。天武天皇が皇后の鵜野讃良皇女(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して創建した寺院であるが、建設中に天武天皇が亡くなってしまい、結局、夫より長生きした持統天皇が完成を見届けたという。当初は飛鳥にあったが、奈良時代に平城京に移された。従って、現代に残る薬師寺東塔は奈良時代のものだが、白鳳文化の特徴を色濃く残しているそうだ。それは飛鳥文化から連なる豊かな国際性に加えて、外から受け入れたものを自らの風土に合わせて消化し、更に深化させていこうとする気風である。

薬師寺東塔・西塔(Wikipediaより)

薬師寺東塔は三重塔だが、それぞれの屋根の間に裳階(もこし)と呼ばれるひさしが設けられているため、見た目には六重に見える。塔頂には細かい細工が施されており、飛鳥時代の法隆寺五重塔のシンプルな美しさと比較すると、繊細かつ洗練された美を感じる。金堂には薬師三尊像、東院堂には聖観音立像が安置されている。飛鳥時代の仏像が、中国・南北朝や朝鮮・百済のものと共通する特徴を多分に持つのに対し、白鳳時代の仏像には同じ中国・朝鮮でも唐や新羅のものと共通する特徴が多いらしい。唐も新羅も、そして律令制を整えたばかりの日本も統一国家として創生期の勢いを持っていた。

薬師寺金堂の釈迦三尊像(「世界の歴史まっぷ」より)

もちろん歴史には光もあれば影もある。飛鳥の地に残された山田寺跡と、後世に僧兵によって強奪され、現在は興福寺に残る山田寺仏頭は、その象徴であろう。山田寺は乙巳の変で蘇我入鹿暗殺に協力したにも関わらず、後に謀叛の疑いをかけられ、中大兄皇子によって滅ぼされた蘇我倉山田石川麻呂が自害して果てた寺である。その寺の本尊であった薬師如来像の頭部だけが、興福寺に現存しているのだ。無実の罪で無念の死を遂げた石川麻呂の怨念がこもっているような仏頭である。石川麻呂の娘は中大兄皇子(天智天皇)の妻であった。その娘が持統天皇である。つまり、中大兄皇子は義父を殺したわけで、持統天皇から見れば、父が祖父を殺したことになる。大きな転換期には、しばしばこういう悲劇が起こる。

興福寺に残る山田寺仏頭
(興福寺HPより)

1972年に発見された高松塚古墳の極彩色の壁画も白鳳文化の代表作である。特に西壁の女子群像は「飛鳥美人」の愛称で知られ、当時の人々の服装や髪型、持ち物などがよくわかる。南壁は失われているが、東西北それぞれの壁には、青龍・白虎・玄武と、それぞれの方角の守り神である四神が描かれている。南壁には朱雀が描かれていたことだろう。同時代のキトラ古墳の壁画にも同様に四神の姿が見える。これらも、古代中国の世界観の影響を受けたものであると言えよう。

高松塚古墳壁画(Wikipediaより)

日本の文化史を古代から近現代に至るまで通して眺めてみると、貪欲に外来の文化を受け入れた時期と、それを独自に消化しながら熟成させた時期が、入れ替わりながら立ち現れてくるのに気づく。ざっくり言えば、開放期と熟成期の交互出現である。たとえば飛鳥文化は開放期、白鳳文化は熟成期、次の天平文化は再び開放期という具合である。平安時代にも、前半に開放期の唐風文化、後半に熟成期の国風文化が現れる。室町時代の北山文化・東山文化、そして次代の安土桃山文化も、それぞれ開放期・熟成期・開放期の周期的変動と位置づけられる。江戸時代の元禄・化政文化では、幕府の鎖国政策を反映して熟成期が続くが、その反動が明治の文明開化で一気に爆発して、極端な開放期を迎えたと考えることもできるだろう。

白鳳文化は前代の飛鳥文化と同様、外来文化の影響を強く受けたものではあったが、それを独自に消化し、熟成させたという点で、飛鳥文化とは少し色合いの違うものとなっているのだ。その象徴が和歌の隆盛であり、宮廷歌人として活躍した額田王と柿本人麻呂の出現であった。





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