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連載日本史104 室町文化(5)

室町文化のもうひとつの特徴は、地方への広がりである。特に応仁の乱で荒廃した京都を逃れた貴族や僧たちが各地へ下ってからは、むしろ地方の文化の方が充実した感がある。特に中国地方を拠点とした大内氏は、朝鮮半島にルーツを持ち、日朝・日明貿易や石見銀山の収益で利益を上げ、文化面にも力を注いだ。城下町の山口は「西の京」とも呼ばれ、連歌の宗祇、水墨画の雪舟、儒学の桂庵玄樹、南村梅軒などの文化人が集まった。その後、玄樹は南九州へ下って薩南学派を開き、梅軒は土佐に下って南学を開いたといわれる。また、同じく儒者の清原宣賢は、将軍や公家に加えて、能登・越前・若狭の大名たちにも招かれ、北陸地方に儒学を広めた。彼に師事した饅頭屋の林宗二は、日本最古のいろは引きの国語辞典である「節用集」を刊行している。有職故実の第一人者である一条兼良は奈良から美濃へ、漢詩僧の万里集九は美濃から関東へ下った後、越後や飛騨にも赴いた。

室町時代の知識人・文化人の足跡(「世界の歴史まっぷ」より)

関東では上杉憲実が下野国(栃木)にあった儒学・易学・軍学を学ぶ場である足利学校を再興した。寺院でも教育が行われ、学問の初歩や道徳観を盛り込んだ「実語教」や「庭訓往来」などが、木版技術の普及により、教科書として広く用いられた。

史跡足利学校(足利市HPより)

室町時代は映画やTVドラマの題材になりにくいと言われる。確かに、源平合戦や戦国時代や幕末に比べると、派手なドラマもなければ、強烈な個性を持った英雄も見当たらない。戦乱は多かったものの、大抵は身内の内輪揉めがダラダラと続いているだけの印象を受けるし、将軍や天皇の影も薄い。しかし、政治の面ではパッとしない室町時代も、文化の面では現代に大きな足跡を残している。日本の伝統文化と呼ばれるものの原型のほとんどが、この時代に形成されているのだ。政治の弱体化と文化の充実の組み合わせは「クールジャパン」の元祖と言ってもいいのかもしれない。



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