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連載日本史211 明治の文化(2)

明治の宗教史は、国家神道の国教化政策による廃仏毀釈の嵐で幕を開けた。多くの文化財が失われたが、政教分離を唱えて神道国教化に反対した浄土真宗の島地黙雷らの尽力によって、仏教界は次第に打撃から回復した。政府も1877年以降は国民の信仰には不干渉の立場を取り、金光教や天理教などの神道系の民間宗教も公認し、大日本帝国憲法では信教の自由を保障したが、国家神道だけは国家祭祀(儀礼)であって他の宗教とは別格だと位置づけ、伊勢神宮を頂点とした神社の格付けと保護を行った。靖国神社や護国神社での合祀は、その延長線上にあるものである。

陸軍将兵の靖国参拝(1000ya.isis.ne.jpより)

一方、西洋文化の流入によってキリスト教も信者を増やした。非戦論を唱えた内村鑑三、同志社を設立した新島襄、後に国際連盟事務局次長となる新渡戸稲造、廃娼運動を進めた矢島楫子など、社会問題や教育に取り組んだ人々が多いのは、キリスト教の特性のひとつだと言えるかも知れない。

新渡戸稲造(Wikipediaより)

政府による神社の格付けに基づく統廃合に強く反対したのは、世界的な粘菌学者であり、民俗学者でもあった南方熊楠であった。古くからの鎮守の森の自然を守ろうとしたのだ。当時、政府内にいた民俗学者の柳田国男の支援もあり、大正期以降は神社の統廃合は行われなくなったという。

南方熊楠と柳田国男(mc-jpn.comより)

廃仏毀釈にせよ、鎮守の森の破壊にせよ、国家が宗教に介入すると碌なことにならない。靖国神社も政治の介入がなければ、もう少し気持ちよく参拝できると思うのだが……。

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