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連載日本史258 60年安保

病気で退陣した石橋湛山首相に代わって首相の座に就いた岸信介は、日米安全保障条約の改定交渉に取りかかった。1951年にサンフランシスコ平和条約と同時に調印された日米安保条約を改定し、米軍の軍事行動に関して日本政府との事前協議を求めることで日米関係を対等な形に近づけながらも、米国との防衛上の協力関係を強化しようとしたのである。しかしこれには革新陣営を中心に大きな反対運動が起こった。安保条約の改定は米国の戦争に巻き込まれる危険性を高め、安保条約の存在自体が、かえって日本の安全を脅かすことになるのではないかという危惧が高まったためである。その背景にはソ連の人工衛星スプートニク1号の打ち上げ成功を契機とした、宇宙空間にまで及ぶ核ミサイルの攻防を前提とした米ソの軍拡競争の激化があった。

新旧安保条約の比較(allabout.co.jpより)

1959年には、社会党・総評・原水協などを中心とした安保改定阻止国民会議が結成された。同年11月には2万人のデモ隊が国会構内に突入。翌月に起こった三池炭鉱での人員整理・指名解雇を巡る大規模な三池闘争の影響もあって、保革対立は激しさを増した。

三池闘争(Wikipediaより)

1960年1月、ワシントンD.C.で新安保条約と日米地位協定が岸信介首相とアイゼンハワー大統領によって調印され、残るは国会での批准のみとなった。5月の衆議院本会議で岸内閣は野党の強い反対を押し切り、警官隊を導入して強行採決を行った。これが国民の間に大きな反発を呼んだ。安保条約そのものにはさほど強く反対していなかった穏健派の人々も、岸内閣の尋常ではない強硬姿勢に対しては怒りをあらわにしたのである。この時点で安保闘争は、安保条約の是非というよりも、民主主義の在り方を問うものへと転換したのだ。

国会を取り巻くデモ(Wikipediaより)

デモやストライキの波は一気に全国へ広がり、6月4日には参加者総数が540万人にも達した。デモ隊が連日連夜にわたって国会を取り巻き、デモ隊に囲まれた米国大統領秘書のハガティーはヘリコプターで脱出。予定されていたアイゼンハワー大統領の訪日も中止となった。国会は空転し、参議院は審議不能に陥り、6月15日には全学連(全国学生自治会総連合)のデモ隊が国会に突入して警官隊と衝突、女子学生1名が死亡する惨事となった。騒然とした雰囲気の中で、衆議院の採決から1ヶ月を経た6月19日、参議院の採決がないまま、衆議院の優越規定に従い、安保条約は自然成立した。岸首相は混乱の責任をとって退陣を表明したが、7月には官邸で右翼の襲撃を受けた。一方、革新陣営でも、社会党の浅沼稲次郎委員長が演説会で右翼の少年に刺殺されるという衝撃的な事件が起こった。安保闘争の流血の余波は、しばらくの間、日本社会を不穏な空気で覆ったのである。

浅沼社会党委員長刺殺事件(parstoday.irより)

新安保条約の規定には米国の軍事行動に関する事前協議制度が盛り込まれたが、実際にそれが発動されたことは一度もない。また、安保条約と同時に締結された日米地位協定は、実質的に米軍の治外法権を認めたものであり、対等な条約とは到底言い難い。つまりは安保改定で岸首相が目指したとされる両国の対等な関係とはあくまで建前上のものでしかなく、対米従属の内実を覆い隠すものに過ぎなかったということだ。それは敗戦のトラウマを隠蔽する一種の防衛機制であり、戦後の日本に通奏低音のように響き続ける一種の国民的病理であったと言えるかも知れない。そして、その通奏低音は、現在に至るまで不気味に響き続けているような気がするのだ。

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