連載日本史177 明治維新(1)
1868年9月、明治への改元とともに、一世一元の制が定められた。天皇の在位期間と元号を一致させるというこの制度は、国家による時間支配の中心に天皇という存在を置くことを明確にしたものであった。新政府の基本方針が五箇条の誓文という天皇の神誓の形をとって発表されたのも、国政の中心は天皇であるということを内外に印象づけるための演出であったと言えよう。討幕・明治維新の原動力のひとつが「尊皇」であったことを思えば、それは当然の帰結であった。
しかし一方で討幕・明治維新のもうひとつの原動力であったはずの「攘夷」は、紆余曲折の末に全く違う道を辿った。尊皇攘夷運動が最も盛り上がったのは、井伊直弼大老による日米修好通商条約の無勅許調印とそれに続く安政の大獄への反発が起こった時期であった。その爆発的なエネルギーがあったからこそ、四半世紀以上も続いた江戸幕府は倒れたのである。だが、いざ新政府ができあがってみると「尊皇」はともかくとして「攘夷」はいつのまにか消え失せていた。五箇条の誓文では直接的な表現こそ避けてはいるものの攘夷運動を「悪習」として退け、開国和親を掲げている。天皇のために異人たちを打ち払うのだ、そのために幕府を倒すのだと、命を懸けて戦ってきた攘夷派の志士たちにとってみれば、裏切られた思いであったことだろう。
維新の指導者層は、遅くとも1864年の四国連合艦隊による下関砲台占領の時点までには、攘夷の不可能性を悟っていた。だが、同時に彼らは、幕府を倒すためには、攘夷派の志士たちの強烈なエネルギーが必要不可欠であることも理解していた。彼らは「攘夷」の旗を下ろしはしなかった。近代化を進めて欧米列強に比肩する国力を蓄えてこそ「攘夷」が可能となるのだ。そのために一時的に外国の手を借りるのだ。それが血気にはやる攘夷派の志士たちを宥める指導者層の論理となった。もちろん詭弁である。
しかしそれは一概に詭弁とは言い切れない論理でもあったと思われるのだ。開国・欧米化へと大きく舵を切った指導者層の根底にも、かつての自分たちを突き動かした攘夷の心性は残っていたはずである。五箇条の誓文の直後に出された一般民衆向けの五榜の掲示にキリスト教禁教が明記されていたのもその心性の表れと言えるかもしれない。攘夷の不可能性の自覚は、欧米へのコンプレックスの内面化でもあった。そうした屈折した心性が「開国による近代化・欧米化を経た攘夷」という自己矛盾的論理を導き出したのだろう。内面化されたコンプレックスは、維新の伏流をなすトラウマ(精神的外傷)となり、時には極端な欧化政策や伝統破壊、時には極端な国粋主義、時には極端なアジア蔑視というように、さまざまな症状を伴って顕在化する。それは近代化の過程で日本が抱え込まざるを得なかった病理であり、今もなお形を変えながら現代日本の伏流をなしているトラウマであると思われるのだ。
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