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バルカン半島史㉕ ~大戦間のバルカン半島~

第一次世界大戦直後の1918年末、バルカン半島で南スラブ系のセルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人によって、セルブ=クロアート=スロヴェーン王国が建国を宣言した。大戦後の「民族自決」の流れに乗り、1919年にはオーストリアとサン・ジェルマン条約、翌年にはハンガリーとトリアノン条約を結んで独立承認を受けたものの、これら三民族には大きな相違点がいくつか見られた。旧ハプスブルグ家領で西欧に近いスロヴェニアとクロアチアではカトリック信者が多く、ラテン文字を使用しているのに対し、旧オスマン帝国領であったセルビアやモンテネグロにはギリシャ正教徒が多く、文字もキリル文字であった。地方分権の連邦国家として歩もうとするクロアチア側と中央集権国家を目指すセルビア側の対立は建国当初から深刻であった。そうした矛盾を王権によって抑え込もうとしたアレクサンダル国王は1929年に国号をユーゴスラビア王国へと改称し、憲法を改正して独裁色を強めた。無理に無理を重ねた「民族自決」であったと言える。

一方、第一次大戦で連合国側に立って参戦したギリシャは、同盟国側に立って敗者となったオスマン帝国の領土からギリシャ人居住地域を奪取する好機と考え、大戦直後の1919年に小アジアのイズミル(スミルナ)へ侵攻した。ギリシャ=トルコ戦争の始まりである。イズミルを占領してアンカラに迫ったギリシャ軍に対し、トルコではムスタファ・ケマルがトルコ大国民会議を招集し、国民軍を組織してゲリラ戦を展開した。1922年にイズミルを奪回したケマルは、翌年、スルタン制を廃止してトルコ共和国の樹立を宣言。400年以上にわたって続いたオスマン帝国は、ここに滅亡したのである。

1924年にはカリフ制も廃止して政教分離の原則を打ち出したケマルは、近代国家としてのトルコの再生を実現してアタチュルク(トルコの父)と呼ばれたが、1923年にギリシャ=トルコ戦争の講和条約として締結さえたローザンヌ条約では、大戦中のセーブル条約で認められていたクルド人の独立を取り消し、トルコ領内のギリシャ人とギリシャ領内のトルコ人の強制的な住民交換に同意した。この住民交換によって、ギリシャ側からトルコ側へ約38万のイスラム教徒、トルコ側からからギリシャ側へ約110万にも及ぶキリスト教徒が移住を余儀なくされたという。戦争の原因となった両民族の混在を解消するという目的で実施された政策であったが、強制移住は各地で様々な軋轢を生み、かえって双方の感情を悪化させる結果となった。ギリシャとトルコの対立は現在も続いているし、クルド人の独立を巡る問題は現代のトルコにおいても深刻な問題だ。ここでも、無理に無理を重ねた「民族自決」が100年の禍根を残したわけである。

こうしてみると、民族自決の原則が有効に働くのは、非常に限定された条件下にすぎないと思われる。すなわち、住民の大多数が同じ民族に属する地域であって、外部との間に明確な境界線が引ける地域でないと、その実現は困難であろう。特にバルカン半島のように歴史的に多民族・多宗教が混在する地域で「民族自決」を唱えることは、不毛な争いの種を増やす結果にしかならないと思われるのだ。

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