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連載日本史117 織豊政権(2)

信長は安土城下に楽市令を出して商取引の活性化を促すとともに、伝来まもないキリスト教を保護した。ポルトガル宣教師のルイス=フロイスやイタリア宣教師のオルガンティノは、信長の信任を得て畿内を中心に布教を行い、オルガンティノは京都に南蛮寺(教会堂)、安土にセミナリオ(神学校)を建設した。とは言っても、信長自身がキリスト教を信仰していたとは言い難い。彼にとってみれば、キリスト教や宣教師も、仏教勢力との対抗や南蛮貿易の振興のために役立つ道具に過ぎなかったのであろう。

エウイス・フロイス像
(www.nichibun.co.jpより)

家臣に対する姿勢も似たようなものだったのではなかろうか。道具として、いかに役に立つか。それが全ての基準であり、役に立たないと判断したものは容赦なく切って捨てる。その冷徹さがあったからこそ短期間で乱世を収拾し、天下統一まであと一歩のところまで漕ぎつけることができたのだろう。もちろん、その過程で切り捨てられた者、犠牲になった者は数多い。

家臣の中には、木下藤吉郎秀吉のように、信長の性向によくなじみ、自ら徹底して使い勝手の良い道具になりきることで信任を得た者もいた。しかし一方で、いつ切り捨てられるかわからないという不安に苛まれる者も少なくなかったであろう。実際、信長は「使えない」者に対しては厳しく、また現在は「使える」者であっても、将来的に邪魔者になる危険性を持つ者に対しては、やはり容赦なく切り捨てた。徳川家康などは、そのあおりを受けて、信長への忠誠を示すために自分の息子を切腹に追いやらざるをえない羽目に陥っている。

旧体制の破壊者には、多かれ少なかれ、信長が持っていたような冷酷さが必要なのかも知れない。温情では革命は起こせない。しかし、破壊が新たな建設に向かう時、その性向はかえって新時代に害をなすものとなる。邪魔者を徹底して排除しながら天下統一に向けてひた走ってきた信長は、それが目前に迫った時、自らが新時代の邪魔者になりつつあることに気づいていたのだろうか。

明智光秀像(コトバンクより)

天目山の戦いで宿敵武田氏を滅ぼし、残るは中国・四国平定のみとなった1582年、中国地方の毛利攻めの大将であった秀吉は、安土の信長に援軍を求めた。天下統一の最後の仕上げには主君に是非お出まし願いたいという気遣いもあったことだろう。信長は家臣の明智光秀に援兵を命じ、自身も入京して本能寺に宿泊した。光秀は兵を本能寺に向けた。不意を突かれた信長は奮戦の末、自刃して果てた。

本能寺(Wikipediaより)

本能寺の変の原因については諸説あるが、光秀の目から見て、信長がもはや天下に害をなす存在に見えていたことは間違いないだろう。人生五十年、化転の内に比ぶれば、夢幻のごとくなり——。信長が好んで自ら舞った謡曲「敦盛」の一説は、天下統一を目前にして謀反に倒れた彼の人生を象徴しているかのようだ。亨年四十九歳。魔王と恐れられた革命児の、壮絶な最期であった。




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