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連載日本史122 織豊政権(7)

関ケ原の戦いは、あっけなく終わった。午前中に始まり、午後にはカタがついていたという。驚くべきスピード決着の直接の原因は、緒戦における西軍の小早川秀秋の寝返りである。彼は西軍の右翼にあたる松尾山に陣を敷いており、両軍を俯瞰する重要な位置にいた。開戦早々に彼が東軍についたのは、西軍にとって大きな打撃であり、誤算であっただろう。しかし、戦の勝敗を決したのはそれだけでが原因ではない。

関ケ原合戦図屏風(Wikipediaより)

関が原に布陣した軍勢の正確な数は不明だが、西軍が十万近くに達していたのに対し、東軍はおよそ七万で、数の上では西軍有利とみられていた。しかし戦が始まると、西軍の中で実際に動いた軍は三万にすぎなかったという。残り七万近くの軍勢は、様子見を決め込んだのだ。

なぜ、このような事態になったのだろう? 西軍の武将たちは確かに豊臣家に忠誠を誓い、三成の呼びかけに表面上は賛同していた。しかし腹の底では、豊臣政権の凋落と次に来る徳川の世を予感していたのではないか。戦が始まった時点で、彼らの目は既に戦後を見ていたのだ。

関ケ原合戦の経緯(www.mapple.netより)

家康は、戦闘が始まる前に、西軍の武将たちに対して、周到な事前工作を行っていた形跡がある。その中には、戦後における徳川政権の構想と、東軍に味方した武将への具体的な恩賞の約束が含まれていたことだろう。小早川の裏切りは、事前工作の効果が顕在化したものにすぎない。傍観を決め込んだ他の武将たちも、潜在的な裏切者であった。秀秋が寝返らなければ戦闘は長引いたかもしれないが、いずれにせよ結果は変わらなかったであろう。戦が始まる前に、大勢は決していたのである。

徳川家康三方ヶ原戦役画像(Wikipediaより)

家康の周到さは、関ケ原に始まったことではない。幼少時に今川家に人質に出された経験を持つ苦労人の彼は「人の一生は重荷を背負って坂を上っていくようなものだ」という述懐を残している。戦国末期の乱戦の中で、彼は何度も手痛い敗北を経験しているが、その都度、したたかに生き残ってきた。1590年には、彼の実力に脅威を覚えた秀吉から、当時は僻地にすぎなかった江戸への領地替えを命じられている。家臣たちは嘆いたが、家康自身は江戸の地に大きな将来性を見出し、十年かけて都市計画を進め、首都としての礎を築いている。彼がいなければ今日の東京はなかったであろう。遠い未来を見通す先見性と、そこまでの紆余曲折も含めた長い道程を歩む粘り強さが、彼の身上であった。家康は、時間を味方につける術を心得ていたのだ。

江戸図屏風(mag.japaaan.comより)

石田三成は行政家としては優れた手腕を発揮したが、それは秀吉というトップが上にいたからこそ生きる才能であった。それは彼自身が痛いほどわかっていたことなのかもしれない。それでも彼は、老獪な政治家である家康に対して戦いを挑んだ。両者の実力差から考えて、むしろよくここまで頑張ったと言ってもいいぐらいだ。だが関ヶ原の戦いは、結果的に家康を次代の支配者として決定づけるものとなった。三成は処刑され、徳川を中心とした大名の序列が再編成された。三年後には家康は征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開く。二百七十年の長きにわたって続く、徳川の世の始まりであった。





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