連載日本史161 化政文化(3)
化政文化の美術の粋は、やはり浮世絵である。鈴木晴信が創始した錦絵を呼ばれる多色刷極彩色の版画は浮世絵黄金時代の幕開けであった。葛飾北斎の「富嶽三十六景」や歌川(安藤)広重の「東海道五十三次」などの風景画、東洲斎写楽の相撲絵や役者絵、喜多川歌麿の美人画など、ゴッホやマネ・モネらフランス印象派の画家たちにも「ジャポニスム」として大きな影響を与えた浮世絵の名作が次から次へと生み出された。
写生画では西洋画や中国絵画の技法を日本画に取り入れた円山応挙が「雪松図屏風」や「保津川図屏風」などの立体感あふれる作品で大和絵の世界に新風を吹き込んだ。文人画では池大雅と与謝蕪村の合作である「十便十宜図」や、渡辺崋山の人物画・風俗画が有名である。洋風画ではエレキテルを発明した平賀源内が長崎に渡来した絵を模写した「西洋婦人図」を残したほか、司馬江漢がエッチング(腐食銅版画)で「不忍池」などの作品を広めた。
庶民の娯楽も多方面への発展を遂げた。江戸・京都・大坂には常設の芝居小屋が設けられ、歌舞伎では中村・市村・森田の三座が置かれた。天保の改革の綱紀粛正で三座は浅草に移されたが、歌舞伎・浄瑠璃は町人の娯楽として根強い人気を保った。武田出雲の「仮名手本忠臣蔵」、鶴屋南北の「東海道四谷怪談」などの現代にも連なる人気作品が上演されたのもこの頃である。
髪結床や銭湯は庶民の交流の場となった。現代の宝くじの原型となる富突(富くじ)、相撲の興行、湯治(温泉旅行)、物見遊山などなど、江戸後期の町人たちは、娯楽の追求に余念がなかった。寺社の境内で行われる縁日や御開帳など、宗教や信仰も娯楽の対象となった。寺社にとっても割のいい収入源になったようである。
民間信仰が娯楽と結びつくのはよくあることだが、とりわけ日本ではその傾向が強い気がする。農山漁村では同業者集団が講を組織して寺社参詣で集団の御利益を願い、厄除けのために庚申(かのえさる)の日に集まって夜を明かす庚申講が全国的に流行した。七福神巡りや西国・坂東三十三カ所参り、四国八十八か所遍路など、寺社のスタンプラリーも全盛である。極めつきは伊勢神宮への御蔭参りで、「ええじゃないか」の乱舞に乗って、1830年には何と500万人もが参加したという記録がある。当時の日本の人口が約3000万だから、六人にひとりが伊勢神宮を訪れたことになるわけだ。庶民パワー炸裂である。
もちろん、江戸時代の庶民たちが深い信仰心を持っていたわけではないことは、その後の明治維新での廃仏毀釈を見ても明らかである。縁日だろうが、御蔭参りだろうが、クリスマスだろうが、ハロウィンだろうが、楽しければ何でもいいのだ。節操のない話だが、世界中で起きている宗教戦争やテロのニュースを見ていると、信仰は娯楽の一環ぐらいの、ゆるい感覚でええじゃないか、とも思うのである。
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