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連載日本史275 米国同時多発テロとイラク戦争

2001年9月、衝撃的なニュースが流れた。米国同時多発テロである。4機の旅客機をハイジャックしたイスラム過激派が、ニューヨークの世界貿易センタービルやワシントンの国防総省に突入した。2棟の高層ビルは崩壊し、旅客機の乗客も含めて死者の総計が3,000名を超える大惨事となった。米国は国際テロ組織アルカイダのオサマ・ビンラディンをテロの首謀者と断定し、ブッシュ大統領は「対テロ戦争」を宣言した。同年10月、ビンラディンの引き渡しを拒んだタリバンが支配するアフガニスタンに侵攻した米国は、さらに一歩踏み込んで米国防衛のための予防措置と先制攻撃の必要性を唱え、大量破壊兵器を隠し持っているという疑惑を開戦理由として、イラク侵攻へと突き進んだのである。

世界貿易センターに突入したハイジャック機(Wikipediaより)

2003年3月、米国・英国を中心とした有志連合軍は、フランス・ドイツ・ロシア・中国等の反対を押し切り、国連決議が得られないままに、イラクへの武力攻撃に踏み切った。有志連合軍は、圧倒的な軍事力で、短期間にイラクの各都市を制圧し、5月には「大規模戦闘終結宣言」が出され、フセイン政権は崩壊した。しかし、独裁政権の崩壊により、宗派間の対立や反米武装勢力のゲリラ活動等はかえって激化し、イラク国内の治安は急激に悪化した。2006年には米国の支援を受けて新政府が正式に発足し、同年末にはフセイン前大統領が処刑されたが、乱立する武装勢力による銃撃や爆弾テロ、拉致や暗殺などが頻繁に起こり、米軍の駐留は長期化した。この時期に組織された過激派組織「イラクのイスラム国」が後のIS(イスラム国)の前身となる。戦争とテロの連鎖が、ここでもまた繰り返されたわけだ。結局、米軍のイラク撤退完了は2011年12月、開戦から8年以上の年月を要して、イラク戦争は一応の終結をみたのである。

イラクでの民間人の死者数(www.asahi.comより)

戦争における犠牲者数は統計によって異なるため、正確にはわからないが、少なくともイラク軍5,000名以上、有志連合軍4,800名以上、イラク国内の民間人の犠牲者数は116,000名以上に達すると推定されている。もちろん、負傷者数はこの数倍に上るはずである。米国のイラク帰還兵の間には心の病が広まり、米国退役軍人省の統計によると、イラクとアフガニスタンの帰還兵260万人のうち5人に1人がPTSD(精神的外傷後ストレス傷害)を患ったことがあるという。帰還兵の自殺者は既に戦闘での米軍の死亡者数をはるかに上回り、帰還兵が関わったとみられる殺人事件も120件を超える。戦争は、勝利を収めた側にも、甚大かつ不可逆的な損傷をもたらしたのだ。

イラク戦争帰還兵の自殺者数(www.nishinippon.co.jpより)

小泉内閣はイラク戦争に際して、いちはやく米国支持の方針を打ち出した。そして、時限立法で成立させたイラク特措法に基き、人道復興支援活動と安全確保支援活動を軸として、「非戦闘地域」に限るという前提のもとで、自衛隊がはじめて戦争当事国に派遣されることとなった。2003年末に始まった自衛隊のイラク派遣は、特措法の期限延長を経て2009年まで続いた。この間に派遣された約9,200名の隊員のうち、29名が自殺したとの報告がある。これは一般職の公務員や他の自衛隊員の統計と比べると、かなり高い自殺率であると言える。戦死者こそなかったものの、「非戦闘地域」での任務が、隊員たちの心に大きな負担をかけたことは想像に難くない。現地での自衛隊の復興支援活動の評価は高く、2006年に共同通信社が自衛隊派遣地域のサマワ市民に対して行った調査では、8割近くの住民が、復興支援に満足していると回答したという。現場での隊員たちの尽力がうかがえる数字である。それだけに自殺率の高さには、やりきれない思いがする。

イラク難民とイラク国内避難民の推移(www.worldvision.jpより)

イラク戦争は、中東のみならず、世界中に深い傷跡を残した。混乱の極から生まれた過激派組織ISは、隣国のシリアにも勢力を伸ばし、さらに各国の過激派組織と連携しながら、国際的な同時多発テロを拡大していく。中東の混乱は多くの難民を生み、トルコやギリシャ、地中海などを経由して、多くの難民がヨーロッパへと流れこんだ。国際移住期間の統計によれば、不法にEU国境を越えた難民は、2014年の1年間だけで28万名以上に及ぶ。難民の急激な増加への対応はEU諸国間の軋轢を生み、英国のEU離脱の一因ともなった。現代の国際社会を覆う問題のルーツの多くは、イラク戦争に端を発しているといっても過言ではないのである。


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