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紫陽花奇譚

地上

白い服を着た女性は、路地を右へ曲がり、姿を消した。
気は進まないものの、あとを追い、追いつかなければならない。
なぜなら、彼女がそう望んでいるから。

右へ曲がる手前の路上に、ミニパトカーが停まっていた。
このあたりは、駅からほど近く、マンションとラブホテル、予備校とパチンコ店、ファミリーレストランとキャバクラが混在している地域だ。
治安は、お世辞にも良いとは言えない。
巡回パトロール中なのだろう。

通りすぎるとき横目で覗くと、ミニパト内の女性警察官二人は、肩をもたせかけ合って、眠りこけていた。
安らかな眠りだった。
驚いたが、職務怠慢、とは思わなかった。

しかし、昼寝に適した昼下りではない。
じめじめして、どんよりした梅雨空である。
車内は、あるいは快適なのかもしれないが、いや、違う。
彼女たちは眠らされているのだと、わたしは直感した。
背筋に悪寒が走った。

彼女たちを起こさねば、助けなければ、と思った。
しかし、白服の女性を追わなければならない。
彼女が二人を眠らせたのかもしれない、とも思った。

どうやら、ここは、もはや、いつもの雑踏ではないし、後戻りはできないのだ、と覚悟した。

二人の女性警官に後ろ髪を引かれつつ、わたしは、右の路地へ入った。

斜めに伸びた路地の突き当たりの、赤提灯の店(それは白けきった真昼の月のようにも見えた)の前に、白服の姿が見えた。
彼女は、すぐ左へ曲がり、またも姿が見えなくなった。

彼女は、さり気ないていではあったものの、明らかに、わたしを待っていた。
わたしが、彼女を見失わないように待っていたのだ。
彼女の背中には目がついているのだろうか。
そう思うと、一層薄気味悪かった。

一見だったので、よくはわからなかったが、彼女が、何か瓶のようなものを手にしているように見えた。

気がつくと、わたしこそ、右手に、檸檬水の瓶を持っていた。
持たされたのだ。
白服は、一体何者なのだろうか。

瓶のラベルに檸檬水と書かれてはいたが、中身も檸檬水かどうかは、わからなかった。
しかし、そのとき、わたしは、強烈な渇きを覚え、躊躇なく、それを飲んだ。
危険なものとは、なぜか思わなかった。危険であってもかまわない、とさえ思った。
どうせ乗りかかった船なのだ、乗るしかない。

檸檬水は、酸味の強い檸檬水のようでもあったし、ただの水のようでもあった。
味覚が働くより先に、即座に、身体のなかへ吸収されてゆくようだった。
灼熱の砂浜に落ちた一滴の水滴のように。

それにしても、白服の歩みは速く、なかなか追いつけなかった。

次の突き当たりで、白服は佇み、蒼白の横顔を見せていた。
遠くをぼんやりと眺めていた。
しかし、目の端には、わたしの姿を常に捉えていたのだろう。
白服は、わたしを一瞥すると、次はまた右の路地へと歩き出した。
いや、歩くというより、浮遊するように移動していた。

路地を曲がった先からは、むかしからある住宅街だった。
防火地域から外れ、低層住宅専用地域となっている、閑静な住宅街だ。
カオスのような駅前地域の一線を、一歩でも超えると、整然と家々が建ち並ぶ地域になる。
一続きであるというのに別世界。
不思議な感覚だった。
渋谷のネオン街から、一転、いつの間にやら、松濤へ抜けたときと、どこか近しい。

白服は、小さな社の前で、足を止めて待っていた。

それは、間口一メートル強の小さな社であり、鳥居もあり、社であるということは疑いようもないのだが、稀な形の社だった。
本殿へ向かう階段が、背伸びどころでは見通せない高さにまで連なっていた。
もちろん、本殿も見えない。
両側にそそり立つ松の木によって、隠れているからでもある。
そもそも、どこの社でも、本殿は秘されているものであるのだろうが。

いつか、教科書で見た、「古代出雲大社の巨大神殿の復元図」が思い出された。
しかし、スケールは全く異なるし、ここは出雲ではなく、古代でもない。

おのずと見上げる格好になった。
とはいえ、階段しか見えなかった。

この先に御座す御方は、わたしを見下ろしているのだろうかと、ふと思った。
しかし、わたしには、松の木に止まるカラスの視線のほうが、強く感じられた。
カラスは、好奇の目で見物している、という気がした。
お手並み拝見、というような。

白服は、鳥居の脇の、フェンスに囲まれた井戸のようなものを、無言で指さした。
防火水槽の表示があり、むかしからある井戸を、防災用に転用したもののようだった。非常時以外、省みられることのない代物だ。

白服の無言のままの強いまなざしから、わたしは、自分が何をしなくてはならないかを理解した。

この井戸のなかへ飛びこまなくてはならない。

白服のまなざしには、有無を言わせぬ、冷徹なまでの強い意志があった。
もしわたしが抵抗を示したとしても、容赦なく突き落としたに違いない。

火が出なければ、水も出ない。
防火水槽を兼ねた井戸は、静かに、そこに佇んでいる。

なぜ、飛びこまなくてはならないのか。
当然、疑問は湧いたが、観念した。

わたしは、靴と靴下を脱ぎ、鳥居の前の路上に、揃えて置いた。
テレビドラマで、飛び降り自殺を図るひとが靴を脱ぐシーンを観たことがあるが、本当に脱ぎたくなるものなのだな、と思った。

そして、そのとき初めて、わたしは、自分が、小豆色のスニーカーと靴下を履いていたことに気づいた。
そんな色の靴も靴下も、生まれてこの方、所有した記憶はなかった。
しかし、いずれにせよ、阪急電車の色より少し赤みがかった小豆色だったし、それを脱いだ。

それらは、初めから、わたしのものではなかったのかもしれない。
誰かの靴と靴下を、間違って履いてしまったのかもしれない。
だから、奇怪な状況に巻きこまれたのかもしれない。
すべて、わたしの落ち度なのかもしれない。

フェンスの外側から、どうしてフェンスの内側へ入ろうかと思案していたら、すでに、フェンスの内側にいた。
空間に歪みがある。
ゆえに、ここに限定はなく、不可能はないのだ。

それでも、怖いものは怖い。
内外のいくらでも逆転するあやふやなフェンスを掴みながら、わたしは、恐る恐る、四角い井戸の縁に足をかけた。
いや、丸い井戸だったかもしれない。
井戸には、竹製の籠目の覆いが被せられていた。
わたしは、つま先で、それをつついてみた。
その瞬間、もう落ちていた。

冥界

井戸の底へ落ちたのだ。
そこを、冥界と呼んでも良いと思う。

あたりは真っ暗闇だった。三半規管が狂い、天地左右を失ったような感覚があった。

しかし、しばらくするうちに、目が慣れてきた。
わたしは、椅子に座っていた。テーブルもあった。
その奥、つまり、テーブルを挟んだ正面に、周囲の暗闇とは別種の、さらに暗い塊があった。
それが人影であると気づいたとき、その人物は、おもむろに口を開いた。

「紅は有利子貸与。青は無利子貸与。藍は無条件給付。さて、どうする?」

老人の声だった。老獪な声、と言う方が正確かもしれない。
どこか、こちらを試しているような声色も聞き取れた。

声の話した内容は、何のことか、さっぱりわからなかった。

「もう一度、お願いします」
と、わたしは言った。

少し前まで渇いていたはずなのに、われながら掠れのない明瞭な声だった。目の前の存在に対峙できるだけの強さが、自分の声に含まれていることに気づき、驚いた。
しかし、相手に、その驚きを見せてはならない。
油断も隙もない相手なのだから。

黒服……白服も然りだが、黒服と呼ぶより思いつけないので、暫定的にそう呼ぶが……黒服は、繰り返した。

「紅は有利子貸与。青は無利子貸与。藍は無条件給付。少し説明が必要かな」

しかし、その後の黒服の説明は、全く説明になっていなかった。

黒服は、自身とわたしを隔てるテーブルの上に、紫キャベツのようなもの(おそらくは紫キャベツだ)を載せ、それをちぎりながら、“説明”をはじめた。

黒服は、どこか、暗い街角の占い師のようにも見えた。
あるいは、魔女か、魔術師か。

「檸檬水にさらせば、これは、より色鮮やかに発色する。pHの違いによるアントシアニン色素の抽出。ご存じか?」

ペーハー?大昔、小学校で習った気もするが、思い出せない。
わたしは首を振った。

そのとき、ふと思いついたことも、訊ねてみた。
「紫陽花の色の違いと、同じものですか?」

白服を追う道中に見た紫陽花を、思い出したからだった。
そう、いまは、紫陽花の季節なのだ。
冥界にいると、季節も忘れてしまいそうになるが、忘れてはならない。
もとの座標に正確に戻るためにも。

黒服は、不意を突かれたようだったが、こたえてくれた。

「いいや、似てはいるが、少し違う。むしろ、色の変化としては、真逆だ。
アントシアニンは、酸性で赤色になり、アルカリ性で青色になる。リトマス試験紙も、色の変化でいうと、同様だね。
だが、紫陽花は、違う。アントシアニン色素なのではあるが、そこは複雑でね、酸性の土壌では青色になり、アルカリ性の土壌では赤色になる」

黒服の話を聴いても、わたしには、全くちんぷんかんぷんだった。
かつて、理科の勉強を疎かにしたことを後悔した。
とはいえ、わたしは小学生の頃から落ちこぼれだった。
熱心に学んだとしても、理解できたかどうかは怪しい。

わたしの戸惑う表情を見てなのか、黒服は続けた。

「アントシアニンは、〈たとえ〉だ。色を借りただけの、便宜的な象徴にすぎない。しかし、色は、いのちとかたちのあわいのものだ。
あんたは、檸檬水、あれは強い酸性だが、それを飲んだ。(檸檬水は、白服ではなく黒服の業だったのか?)
で、染まったのは、靴と靴下だけだった。小豆色という微妙な、鈍い反応だった。しかも、あんたは、それを脱いできた。赤色を脱してきたわけだ。紅は有利子貸与。あんたは、それを初めから選ばない。残るは、青の無利子貸与か、藍の無条件給付かだ」

「色で選べ、ということですか?」

「色で選んでもいいし、条件で選んでもいい。選べない場合もあるが、あんたは選べる」

「実は、わたしには、青色と藍色の色の違いが、いま一つわかりません。
ただ、藍は、loveの愛、わたしのIと同じ音なので、言葉遊びですけれど、何となくいいな、と思います」

「目のeyeのアイでもある。アイは無条件給付だ。貸与か給付かと、奨学金のように見立てたのも、〈たとえ〉にすぎない。
青と藍の色の差を見分けられなくても、見かけ上は微妙な差だ。実は、雲泥の差だがな。
あんたは、藍の無条件給付を選ぶ。
選ばない奴の気が知れないんだが、そういう奴もいる。でも、普通に考えれば、貸与よりは給付のほうが良いよな?」

「えぇ、できれば。でも、そもそも、受けとらなくてはならないものなのですか?」

「まずは受けとっておけ。(黒服は呆れ声だった)もし返したいなら、返せば良いけども。
但し、アイにはアイでしか返せない。別の何かでは返せない。何せアイだし、代わるものがない。そもそも無条件給付だ。返すもんじゃない。巡らせるといい」

黒服の“説明”は、わかるような、わからないような話だったが、わたしは、どうやら、藍の無条件給付を受けとったらしかった。

次の瞬間には、わたしは、自分の身体が、つま先から上へ向かって、じわじわと藍色に染まっていくのを目の当たりにしていた。
藍の色素が、体中の細胞の隅々にまで行き渡るのを感じた。

ふと、『風の谷のナウシカ』の、王蟲と墓所の青い血が、思い出された。
周囲の闇と同化するようにも感じた。

網膜にまで藍色が染みてきたとき、目より下の身体が、まるで宇宙のように見えた。
闇のなか、無数の星が瞬く、宇宙のように。
それは、浄福感を覚える眺めだった。

そして、頭のてっぺんにまで藍色が染みたとき、わたしの意識は途切れた。

天界

気がつくと、わたしは、もとの地上に戻っていた。
そして、白服の手のひらの上に載せられていた。

白服の手のひらの上!

白服の巨大化に、ぎょっとした。
白服は、ぎょろりとした目で、わたしを凝視していた。
まばたきの睫毛の動きが恐ろしかった。

だが、あたりを見回してみて、どうやら逆に、わたしが縮んだのだと気づいた。
ここは、どこまでも、空間に歪みがある。

「小さくならなければ、昇っては、いけない」
と、白服は言った。

白服は囁いただけなのだろうが、わたしには身を貫く大音量で響いた。
白服の声を聴いたのは、あとにも先にも、このときだけである。
彼女は、声より、まなざしで語る。

白服の、「いけない」という語尾には、行けないという不可能とともに、行動を禁ずる響きがあった。

白服は鳥居をくぐり、社の階段の零段目にわたしを置いた。
白服の眼は、「昇れ」と言っていた。
またも、有無を言わせぬ、強いまなざしである。
やれやれ、落ちたあとは、昇るのか、と思った。

わたしは、仕方なく、全身でよじ登るように、階段を昇り始めた。
白服のまなざしを、背中に痛いほど感じたが、意地でも振り向かなかった。

「小さくならなければ、昇っては、いけない」
白服は、そう言った。
確かに、小さくなったからこそ、この社の本殿へ、神殿へ、昇っていけるのだ。
小さなひとになったから。

ふと、ドラえもんのスモールライトが思い出された。
冥界くだりは、スモールライト体験だったのだろうか。

そして、リトル・ピープル、という言葉も思い浮かんだ。
小さな・ひと、リトル・ピープル。
確か、『1Q84』だ、春樹先生の。
青色の新潮文庫を買い、夢中で読んだ記憶がある。
でも、残念ながら、ストーリーの詳細は思い出せない。
それが、小説の良いところでもあり、良い小説の証でもあるのだが。(何度読んでも楽しめる)

確か、首都高速の非常階段をくだることから始まり、首都高速の非常階段を昇って終わる小説だった。
まさに、わたし向きの物語ではないか。
もしまた、地上に戻ってこられたら読み返そう、と思った。
小説『1Q84』の存在する世界線に戻ってこられたら、だけれど。

勾配の急な階段を、22段、昇った。
わたしは、しかりと階段の段数を数えていた。
その先にも階段があるように見えていたのだが、次の23段目で終わりだった。
23段目が、神殿の階層であるようだった。

俄に、ドライアイスのスモークが焚かれたように、視界が遮られ、正面から冷気が流れてきた。

わたしは、一気に厳粛な気持ちになった。
畏れも抱いた。
スモークの向こうから、どんな神々しい存在が現れるのかと緊張した。

しかし、現れたのは、広い畳敷きの部屋だった。
それは、どこか、郊外のスーパー銭湯の無料休憩所を思わせた。
風呂上がりの老若男女が、無防備に身を投げ出して、くつろいで、ごろごろしながら、ぼんやりとテレビを眺めたり、うたた寝したりする、憩いのスペース。

これが?ここが神殿なのか?と、正直、拍子抜けした。
聖域にしては、あまりに俗っぽくすぎやしないか、と。

畳敷きの左前方の片隅に、火鉢を突く人影が見えた。
一見したところ、背中を丸めた好々爺の印象だった。

近づいていくと、好々爺は、にこやかに言った。

「22段を超えてきたね」
どうやら、歓迎してくれているようだった。

「はい」
と、わたしは、こたえた。

「『夫婦を超えて』きたわけだ。善き哉、善き哉、ハッハッハ」
と、好々爺は声を上げて笑った。

好々爺が言うのは、つまり、22=夫婦を超えてきた、ということだ。
なんだ?駄洒落か?『恋』か?星野源か?と思った瞬間、好々爺が、一瞬、本当に、星野源になって、びっくりした。

好々爺は、わたしの驚く様子を、楽しそうに見ていた。
このひとは、七変化、いや、融通無碍、変幻自在なのだ。

「いや、愉快、愉快。さよう、わたしは、星の源。star source。お醤油かソースかの、ソースじゃないよ。まぁ、ソースもsourceから来てるんだけど」

思わず、吹き出して笑ってしまった。
愉快なおじいさんである。
とはいえ、これも、かりそめの姿なのだろう。

わたしは、吹き出しはしたものの、彼(あるいは、“それ”と呼ぶほうが妥当かもしれない)が、星の源、star sourceである、ということを、一寸の疑いもなく、すんなり受けいれていた。

star sourceが、ユーモアたっぷりに、わたしと同じ地平まで降りてきてくれたことに(わたしも23段昇ったのではあるが)、感謝と喜びを感じた。

「昇ってきたから、手が傷だらけだね」
と、好々爺は、わたしの手を見て言った。

いたわり、慈しむ、やさしいまなざしだった。
容赦ない白服のまなざしとは、大違いである。
黒服とも、カラスとも、全く違う。

わたしは、好々爺に言われ、まなざされるまで、自分の手が傷だらけであることに、気づいていなかった。
見ると、ひどい赤ぎれのような状態で、ところどころ血が滲んでいた。
わたしの血は赤かった。
王蟲のように青くはなかった。
急に、痛みが、チクチクと閃くようだった。
なぜか、胸までチクチク痛む気がした。

「ミトンをあげようね。向こう側の文机の引き出しを開けてごらん」
と、好々爺は言った。

わたしは、言われた通り、火鉢の反対側の隅の文机のほうへ歩いていった。
前方に、はたと気づき、驚いた。
文机の上には、あの檸檬水の空瓶に、紫陽花が生けられていた。
紫陽花の色は、まさに集真藍(あずさあい)、藍色だった。

地上や冥界とのつながりを感じつつ、それが何を意味するのかは、全くわからなかった。
わからないまま、さておき、文机の引き出しを開けた。

そこには、一組の、ではなく、片方のみの、空色のミトンが入っていた。

片方のみのミトン。
片面は、空色に、朝焼けのような赤みが射していた。
もう一方の面は、空色に、夜のとばりのような青みが射していた。
いずれにしても、両面とも、空色と呼べる、あるいは、空色としか呼べない色だった。

片方のみの、朝と夜とを併せ持つ、空色のミトン。
左用か右用かわからない。
朝と夜の、どちらが表か裏かも、わからない。

わたしは、戸惑いながら、好々爺のほうを振り返った。
その瞬間に、好々爺も、わたしも、部屋の真ん中にいた。

好々爺の両手が、わたしの両手を、そっと包んだ。
すると、わたしの両手の傷は、一瞬にして癒えた。
その奇跡と祝福に、目を瞠り、息を飲んでいると、好々爺はわたしの手を包んだまま、囁いた。

「ミトンはね、これでいいの。これは、片方を失くした片割れじゃないの。こうして使うんだよ」

そうして、わたしの合わせたままの両手に、すっぽりと被せた。

「ね、一つしか要らないでしょう」

そう、手を合わせるときには、両手は一つなのだ。
そのときは、ミトンも、一つだって、かまわない。

「だけど、手と手は、護られなくてはならない。だから、一つは要るんだよ」

好々爺の手のひらは、しわしわの、乾いた、少しひんやりとした掌だった。
安堵を覚えた。
懐かしさも覚えた。
わたしは、この掌に、何度も受けとめられてきたのだ。
そして、この手になりたい、とも思った。

往き還りの地上

次に気がついたときには、わたしは、みたび地上にいた。

わたしは、白服だった。
わたしこそ、白服だった。
わたしが、白服だったのか!

白服のわたしは、右手に檸檬水の空瓶、左手に手折った紫陽花を持っていた。
紫陽花は、紅でも、青でも、藍でもない、淡い空色をしていた。
梅雨空の合間の、透きとおる淡い空色だ。

白服のわたしは、紫陽花を手向けると、手を合わせ、瞑目した。
花も、祈りも、天に届くことを、初めから知っていた。

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