印象派の"女性"画家たちに思うこと
アーティゾン美術館では、常設展で膨大な石橋財団のコレクションを見ることが出来る。10/25まで「印象派の女性画家たち」特集展示もある。
区別するために仕方ないことではあるんだけど、女性だけ職業に「女性○○」とつくの、モヤモヤしてしまう……(ママ記者とか女医とか女性政治家といった言葉もモヤモヤ)。モネやゴッホやピカソは「男性画家」とはくくられないのに。でもそれもこれも、女性が画家や職業を持った一人として活躍していくのが難しかったからだ。それは今も、かもしれない。
メアリー・カサットは「女性画家」と呼ばれたくないと言っていたひとりなんだそう。「シモーヌVOL.2」に特集が組まれていて、いつか実物の絵を見にいきたいなぁと思っていたので、こんなに早くチャンスがあるとは!と嬉しくなった。
わたしがカサットの存在を知ったのは、カサットの「桟敷席にて」という絵の解説をどこかで読んだことがきっかけだった。
当時、社交場だったオペラ劇場。奥の男性が見ているのはオペラの舞台ではなく客席の着飾った女性たち。女性は観劇にいったのに「見られる」立場でもあったことに気づく。でも、この絵の黒いドレスの女性はオペラグラスを手に、身を乗り出して夢中になっている。「わたしは舞台を見るんだ」という意志が伝わるかのよう。
この絵の解説を知って、女性のやわらかな体を描いた裸婦や女神の絵って、たしかにとても素敵だけど、そういえば女性ばっかりが「見られる」って変だよな……と感じたのを覚えている。
アーティゾン美術館の「印象派の女性画家たち」特集では、メアリー・カサットだけでなく、ベルト・モリゾ、エヴァ・ゴンザレス、マリー・ブラックモンの絵が展示されている。(「桟敷席にて」はボストン美術館蔵。見られないので注意)
カサットの「日光浴」は色合いが優しくて、母と子のやわらかな雰囲気が素敵だった。モリゾの「バルコニーの女性と子供」も好き。街の様子を眺めながらどんなことを考えてるんだろう。
今でも美術界はまだまだ「男性社会」だと思う(観客やスタッフは女性がかなり多いのにね)。あいちトリエンナーレで参加作家の男女比を半々にした「ジェンダー平等」の取り組みが画期的なことだったという現実もあったし、サイトが閉鎖することになった「美術館女子」の問題もあった。
美術史・ジェンダー史研究者の吉良智子さんが寄せていた論考がとても勉強になった。
写真に限らずあらゆる「表現されたもの」は、現実そのままを切り取ってはいない。それを制作した側やそれを好ましいとする社会の欲望や価値観の写し鏡なのだ。
男性を「見る側」、女性を「見られる側」に置く構造があり、それは男性を創造する側、女性をその素材とする文化システムにつながっている。女性とは何かを創造する存在ではなく、ただの素材としてその身体を提供する側の人間とみなされた。そうした構造を維持・強化する無言の圧力に、私たちの社会の中にある「女/男はこうあるべきだ」という価値観が手を貸してきた。
カサットが不均衡なジェンダー構造を作品に描き留めてから、140年が経過した。文化を創造する側であろうと努めたこの女性画家は、男性の不躾な視線にさらされる若い女性を、ただの素材として描くことはしなかった。女性にオペラグラスという能動的に鑑賞するための道具を持たせて「見る側」に置いたのである。この「挑戦」がいまだ有効であることを非常に残念に思う。
非常に考えさせられる……。わたしも「挑戦」がまだ必要なことを残念に思うな。
そうは言っても、やっぱりルノワールもモネの絵も大好きなんだけど。性別にかかわらず素晴らしい絵は素晴らしいと思う。
この「すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢」の表情の愛らしさといったら……(こんな子が姪っ子にいたらおばバカ間違いなしだな……)。幻想的な色合いのモネの「黄昏、ヴェネツィア」は、もしかしたら睡蓮とかより好きかもしれない。
あとなんだか目が離せなくなったのがアンリ・ファンタン=ラトゥールの「静物(花、果実、ワイングラスとティーカップ)」だったな。すごく写実的なのに写真とは違う生命力……。(しかし印象派の絵って額がめちゃ派手よね)
そして、青い日記帳の『いちばんやさしい美術鑑賞』に出てきたセザンヌの絵「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」も観られた~!!
このnoteで紹介している本に出てくる絵。これを読んで、美術鑑賞がこれまでよりも楽しくなった。
今までとは違う思いで見つめるセザンヌの絵。やっぱり何事も知れば知るほど、学べば学ぶほど、新しい視点が自分に生まれて面白いなぁ。
ちなみに同じく10/25までの鴻池朋子さんの「ちゅうがえり」もめちゃ素敵なので、ぜひアーティゾン美術館に足を運んでみてほしい~
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?