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その昔。
キレイになりたかった。
美人になってモテたかった。
なぜなら認められたかったから。
いい子だと、可愛い子だと。
いじめられ、のけものにされるのはもうたくさんだった。



メイク、スタイル、香水の選び方。
毎朝の研究。
独自の骨格と筋肉のつき方を知り、肌質を知り、どうすればそれを最も引き立てるかを知る。朝、より短時間で仕上げるには?
少ないお金でそれらアイテムをいかに少なく揃えどう使いこなすか?例えば一本の口紅、一本の眉ペン、ひと壜の香水だけで。



やがて自分でも驚くほど異性に声をかけられるようになり、同性にも優しくされるようになった。
そのためには実はごてごて飾り立てずとも最小限で清潔に、姿勢よく、丁寧に動けばよいと分かった。



ある朝、その最小限の身支度を終えるとふと気になった。
自分だけキレイになっても部屋がキレイでないなら片手落ち。
部屋を掃除し鏡を磨いた。それは慣習となり、動作は進化している。



さらに思いは広がる。
自分の部屋だけキレイにしても、家がそうでないなら片手落ち。
家を掃除した。
家の外も掃いた。
自宅の前だけでは片手落ち。
向こう三軒両隣の家の前も掃いた。
大好きなお向かいのおばさまの家、内気なお隣の奥さまの家、今はもう会うこともない斜向かいの幼なじみの実家。



部屋にだいすきなお花を飾りたくなった。
それも毎日水を替え、世話してあげなければ。この子は生き物だ。私と同じ。するとどんな器にその花が入りたがり、どう生けて欲しいかを伝えてくるようになった。それをそのまま言う通りにしてあげれば一番美しく見えることを、花の方で分かっていた。



私には?
コンビニの食べ物をいつも与えてたけど、それで体は嬉しいの?飽きない?
料理を作ってみた。うまくはいかなかったけど、体が何を食べたがっているのかを感じるとその奇妙な料理はなんとか出来、それをとても美味しいと感じた。キレイに盛り付ければもっと美味しく感じた。料理は進化していく。自分へのご馳走の延長線上で家の人にも作る。とても楽しい。美味しいと言われるともっと色々作りたくなる。




聴くもの。観るもの。読むもの。
それは気持ちいい?
そうでなければ潔く止めた。
気持ちのいいものだけを選んだ。

 

思いを話す。他者への言葉。
どうしたら自分と、他(ヒトばかりでなく無生物に至るまですべて)に気持ちいい?



身近な人たちがその場にいない別の誰かの話をよくしていた。陰口や悪口が多かった。彼らはそれを楽しんでいるようだったけど、私はいやだなと思った。
口を噤み、耳を開いた。必要な情報のみを拾ってあとは耳も閉じた。一切必要がなければ完全に閉じて、ほかの必要なことや楽しいことに集中した。
他の人について喋ることを止めた。素晴らしいと感じ、心底賛辞を述べるほかは。



時にひどいと感じる目にあったりひどいと感じる言葉を投げつけられることもあった。
でも、そこで激昂するのではなく。
そうすれは相手と同じ土俵に下がってしまう。相手と同じ、あるいはかつて経験していたのと同じ地獄をまた生きることになってしまう。あるいは相手にそれを強いることに。
勝つ負けるはもういい。飽きたしそもそもそんなものは無い。そこに降りるのはもうイヤ。



何故、そんなことをしたの?言ったの?と考え、感じ取ってみた。
するとたとえば体や年齢や立場が上の人物であろうと必ず、怒りなじってくるその姿は小さくしぼんで、泣いている幼い子どもの姿に変わった。



その子どもを泣き止ませようとしゃがんで撫でた。撫で方には色々ある。
しばしば離れたり、黙って見守ることの方が泣き止ませる(激怒やパニックを止める)効果が高いのを知った。
同情や自分まですり減らす偽善の施しは毒でしかないことも。



それでもその子ども(の姿をした壮年や老人やら)が怒り狂うままなら。
選択肢があった。
一つは完全に離れること。その態度も行動も本人の選択だから尊重することになる。
一つは覚悟を決めて隣に座っていること。
ご縁がある人だ。そばにいたい。この人は学ばせてくれる、成長させてくれる、やがて一緒に笑ってくれるのが見える。だいいち、好きだわ、と。
この二つの選択には迷う余地がなかった。
大抵すぐ決心がつくか、自然と必ず離れてしまうかだったから。



離れたらもう、考えないことを学んだ。ただ幸せに、これまでありがとうとだけ胸のうちで告げた。
実際に死ぬ人たちもいたが、それは私の知るところではない。彼らの選んだ運命の結果を彼らが受け取っただけのことで、自然なことだ。



この世には、誰のせいとか、何々のせいとか、自分のせいだなんてありえないと知った。
しかも全て自分に関わってもいると。
通り過ぎる見知らぬ人も、さかんに触れてくる美しい蝶や蜻蛉も、たまに現れるが聞き分けが良く品のいいハエやごきぶりも、饒舌な猫も、ここぞとばかりに現れる優しい鳥たちも、形のない巨大な雲の輝きも、突如私を照らす金色の月も、アフリカのようなピンクの夜明けも、倒れかけたのに何故かふと空中で止まってくれるほうきの柄も、やがてこの星に還る(だから私と同じもの)塵たちも、全身をめぐる風の息吹と熱も、みんな大好き。



だからメディアが言ってることに時々、ああもうじきなんだな、と感じることもある。
一見華々しいその人々や作品群、
一見むごたらしい出来事や意思たち。
なんの顕れなのか。



私がどこに属するかや「欲望や目標はないのか」なんて問いにも答えられない。
「高慢ちき」とか
「お前みたいなキチガイなんか要らない、お前の言うことなんて聞きたくも分かりたくもない」
なんてことを言われてもふうん、と笑って歩いていく。それらの思考や言葉がどこから来たのか、知っているから悲しいも怒るもない。
すべて、透けて見えている。
その、カラーも。
その、行く末も。
それも、本人の選択と自然な成り行きだということも。



「私」というものは無い。明日この体があるかの保証もなく、それは誰も同じ。
笑っているの。
みんなキレイだし、みんな可愛くて、みんな優しいもの。

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