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クリスマスの夢

どうも水宮です。のし。(知ってる?のし泳ぎ。)


クリスマスについて先日書いたが、書き落とした「もうひとつのクリスマス」が気になって仕方ない。あれでは片手落ちで。なので、先日の記事と併せて、ということで。



祭、という視点で前回書いたクリスマス。
それはもちろんだが、別の静かな面も、もちろんクリスチャンの方々やそうした敬虔な方々はご存知だ。



クリスマスは、祈る日であると。



私は、それについては、イヤーただ飲んで騒ぎたいだけだったし、別に宗教的拘束もなく、こちらからも宗教にはなるべく近寄らない。


(神社にはどうしても引き寄せられてしまうのだが、別に詳しくないし御朱印も集めない。話題のパワースポットも気にしない。個人的に気持ちいいから行くし、個人的に短く特殊なことを「聞きに行く」か「短く報告し礼をする」という感じ、あとはなんか分からないけどもらう。それは、すみませんちょっと上手く話せなーい^_^ なんとなく後述します)



私が宗教を避けるのは、ルパンが銭形から逃げるようなもので、自分は悪者だからあんなのに捕まったら「たまらん罰せられる!」と感じてしまうからである。


どんな宗教の本を読んでも、まず善悪があり、セットでってかそれがメインじゃねえのってくらいマストで「地獄」や「悪魔」がついてきます。
どこもその残酷なこと、ギネスに申告していいほど。
そしてどこも脅すのだ。
「悪い子は落とすから。」
水宮、すたこらさっさ一目散に逃げる猫。コラー‼️って怖いのが追っかけてきてひどい目に遭わされると知ってて誰が「にゃーん❤️」って行くもんか。


だいたい、善行を積むのは大変だ大変だと焚き付けつつ、それをしないと天国はお預け。ちと気を許して悪事を働けば「ハイ地獄」。
宗教とやらを考えたのは、どこの文化でもナンバーワンのどSとしか思えない。



だからイヤだったし、今も基本姿勢はそう。


妙なことはある。
私は母方の祖父が大好きで、祖父は僧侶だった。もう亡くなったし、思い出も小さな頃のことだ。


祖父は穏やかで笑みを絶やさないながら、人を見抜くような力があった。僧侶になる前は小学校の校長をしていたという。



夏休みはいつも家族で行った。朝、いつも孫三人を伴って寺の庭を散歩したが、ある朝珍しく、祖父と二人きりで池のほとりを歩いていた。
五歳の私は、ふと池の側にある「ぐみの木」(実は美味しい)が、赤い実をたわわに実らせさらに地にたくさん落ちているのを見て、突如大声で言った。
「花が咲かなきゃ実はならぬ」
自分で言ってしまって、意味も分からず自分でキョトーンとしていると、祖父が横で呵々大笑した。
「わはははは!そうだそうだ、水音よく分かっとるな!そうだその通りだ!」
(??)
祖父はとても笑って、笑って、そして私の頭を優しく撫でた。
あとで伯父と二人して、ニカニカ笑いながら私の母に言った。
「桂子。水音な。こりゃ触らぬ神に祟りなしだぞ」
私はこの時も横で、?でしかなかったし、母もそうだったようだ。



なのに、歳を経ても、今も寺に入ることができない。寺はイヤなのだ。入って行けない。私は相当悪者なのだろうか。神社はスイスイにこにこ入れるのに。仏教についても、教科書ていどの知識しかない。


キリスト教の教会はこれも大好きで、これもスイスイ入るが、信者の方に見つかるとザリガニのようにすすすと逃げてしまう。


レリジョンのアイデンティティが迷子な気がするが、まあ「神さま」というかたちのないもの(たち)に関してはラブラブなので、迷子でもないのかな。


祖父が言っていたことがある。
「地獄も極楽もぜんぶこの世にある。生きてるあいだにぜんぶある。人はな、生まれたら死ぬまでその中を大行進するんだよ。死んだら、あとは分からない」っておじいちゃん、結構パンクだったな。


で、文字通り、その地獄に住んでいた頃の話だ。
地獄にはグラデーションがある。その時のはかなり濃いめで、ミッドライフ・クライシスだなんて言えるようなおシャンティなものではなかった。

やばい。本当に。私は悪事を働いたのか?バチなのか?分からない。



だが、救急車は走るわ目は異常もないのに勝手につぶれかけるわ精神的にも連日空襲のようで、生きた心地もしない。


十六の時、双極性障害を発症した。二級である。その時はもちろん、その後何度かキョーレツなのもあったが、その時のもなかなか。ただ、もう若くない。もたない。



大切なひとをいくたりかなくした。そして、まだ死にたくなかった。まだ。


危ないのかな。でも覚悟ができていない、目も失いたくない。だってまだ私はなんにもしてないじゃないか。
生きてきて、なんにもしてないじゃないか。
死にたくない、神さま助けて‼️
あのひとたちがいない、ならもうこんな世界いい、あのひとたちを幸せに。でも、私、まだ死にたくない。少なくともこんな怖がったまま死ねない、助けてください‼️


地元の大きな神社に行き、本殿の裏、ひとけのない所にある巨大な御神木の下にしゃがんで、苦しさのあまり泣き叫んだ。


「神さま助けてお願いです‼️」


それから毎晩、奇妙な夢を見るようになった。


暗闇の中で、何かのシーンを見せられたり、何者かにクイズを出されて答えたりする。言葉に関連することが多く、起きた瞬間は意味が分からない。しかし、その日のうちにその「本当の意味」や、「それをどう用いるか」や、「それが何故いまの私に必要なのか」が判明した。
夢は止まらず、私は震え上がった。


精神科の担当医に相談した。すると気にしなくていいと言う。あなたは統合失調じゃないよ。何人も先生診てきて、全員違うと言ってるでしょう。脳はいろんなことするもんだから、あまり気にしないでいいよ。私にはその夢の意味は分からないけどね。



イヤ先生、やばいんですよーと泣きつきたかったが、仕方なく帰り、出された薬をきちんと飲み、止まらぬ夢で「毎晩クイズ」。
私の正解率は100で、間違えたことはない。


数ヶ月経ったある晩。とうとう私はキレた。
「もおー誰だか知らないけど怖いよ!なんなんですか!知らないよこんなの!うわーん!」



泣きながら部屋で深酒をし、床で眠ってしまった。


夢の中で、私は何か重要らしい文章を読まされていた。
どれも必要で重要と分かるが、意味も分からないし、とても覚えきれない。
その中で一つだけ、浮き出ているように目立つ言葉があった。



男のものとも女のものともつかない、優しい声が訊いてきた。


「どれが重要だと思う?」


私は、いつものように、答えを頭に思い浮かべた。
その言葉は、
「愛」だった。


それを思い浮かべた瞬間、声はほほ笑むように言った。


「今日はそれを知る日」


目覚めると、クリスマス・イブの朝だった。
2017年12月24日。


静かで、満ちた気持ち。とても静かで。
そして、それまで気軽に使っていたその「愛」というものの本当の意味を、まだ私は分かってなどいないことが分かった。


そうか。今日から始まりなんだ。誰だか知らないけど、あなた神さまなんでしょ。あなたが誰でも、何人いても、ヒトでなくても、結局ひとつでも。名前やかたちがなくても、私はあなたが大好き。


それから、すべてが始まった。
全部自分でやるしかなかったが、何故か助けはいつもあり、私は日増しにしあわせになってきた。無茶でしょと思われることにも、向かって行った。
愛、とやらは、もう他人にもらわなくて良くなった。あげる一方で、あげてもあげてもなくならない。笑いかけたり、道掃除するとか、そんな程度だけど。
うちにあらかた持って行っちゃうラブ泥棒が一人いるので、その人中心ではありますが。


かくして、本もイコンも「のりと」もない実地の「お勉強」をしつつ、ゆかいな隠遁者をしてるってわけだ。


ま、クリスマスや冬至という日は、始まりというのは本当のようだ。


こういうこと言うとアレな人と思う向きもあろうが、しょうがないじゃない。ホントだし。証明?私にはできないが、たとえば空はいつでもしてる。そういうものだから。


メリークリスマス、皆さん。愛がありますよう。そしてそれが、手始め。

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