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紳士と蝶

仕事上がりにたまに寄っていたワインショップは、角打ちが出来た。カウンターで立って、その日のおすすめをグラスで飲める。
夏場現場に冷房がなかったのも堪えたが、冬場外構作業などあった日はしんから冷え込んでしまう。赤色のワインを飲み始めたのは歳的に、養命酒っぽい飲み方ではあった。養命酒よりは格段に美味いうえ、暖まる。


そこは気の利いたつまみも少しあったり、日替わりのおすすめワインは私の安月給でもワンコインでグラス一杯ならつい手が出る。その日は格別寒くて、ついまたフラリと一人寄り、名前も読めないグラスを頼んだ。


一息ついて、やっと体がほかほかとほとびてきた。
ふと見ると、少し間を空けて、同じカウンターにぱりっとした身なりの小柄な老紳士がにこにことワイングラスを傾けながら私を見ていた。思わず、会釈をする。彼はテノールの声で機嫌よく、尋ねてきた。

「何を飲んでらっしゃるのですか?」
私は照れ笑いをした。
「いつも日替わりで。ぜんぜん分からないんですよ。普段はコンビニのワインですし」
そこは試飲もできるので、もちろん店内の物は自由に選べて、気に入れば買える。そんな恐ろしいこと、したことない。

老紳士はゆっくり手を伸ばして、私の前に置かれたボトルを持ち上げ、英語でもフランス語でもなさそうなラベルの言語に目を走らせるとニコッとした。
「ああ。これはいい。この年は良かったから」
なんの話してんだ?この人、何者?まあ、この辺にたくさんいる、お金持ちなんだろう。
でも、優しいそのほほえみは、いつも行く居酒屋で唯一私がなついてるおじいちゃんと変わらない。

「お嬢さんは、お仕事上がりにいらしたのかな?」
「はい、たまに寄らせてもらいます。正直、銘柄なんかホントに分からないんですよ。でも、コンビニのとは違うなあとは、思うけど」
「ふふ。どうですか?これなんか」
彼は店員さんを呼び止めて、私が止める間もなく自分の前のボトルからグラス一杯注がせると、私の前に置かせた。店員さんも若いくせに、ったく気取りやがって。私とは普段軽口を叩いているくせに。

「あの、申し訳ないですから」
「まあまあ」

飲兵衛が世界一、弱いセリフ。
「恐れ入れます」あーあとで一杯奢り返さなければ。で、有り難く頂戴した。

そのワインを含むと、なんていうか。
レトルトのいかすみパスタの素をコンビニワインとすると、それは本物のいかすみのような。重い。いろんな味、いろんな温度、舌が驚いて少し痛みさえした。喉を降りる時、一種毒薬を飲むような興奮すらあった。いい香り。なのに、嬉しくて、悲しいみたいな。何コレ?


彼はそのワインを教えてくれ、その時私が飲んでいた日替わりのものともどもそれぞれ何年に収穫されたかや、その年のその地方の気候、などを教えてくれ、その土地のことを教えてくれた。


風景を観ながら、本当にそこにいるように、飲むことができた。匂いはそこの風や空気の湿り気と土のもの。近くに海や水辺があるかどうか。柔らかい葉ずれの上の金に染まる太陽が何度も東から西へ落ち、夜は星が輝き、そしてこごっていった小さなぶどうの粒のそれぞれの思い出が、世話し摘み取った人々、ゆりかごの樽木、ベッドを見守っていた人たちの声に育てられて。
みんな、フラッシュバックするように、見える気がした。
だから素直にそう言った。だから、こっちのも、そっちとは違うけど、美味しくて、体が暖まって、気持ちがいろんなふうに良くなります、と。


紳士はさらに嬉しそうに笑った。
しっかりした作りのフランネルのスーツ、たぶん絹の濃い色のネッカチーフ。色は派手ではないが、小柄な彼によく似合う。
仕事は退いて妻と近くのマンションで二人暮らし。趣味は料理だそうだ。何故だろう、昔は船乗りかなんかじゃなかったのかな、なんて気がした。親戚のおにいちゃんに一人船乗りがいて、なんとなくそんな、遠い気がしたから。


さて。少し酔いの回ってきた私は、何かお礼をあげたくなってきた。ここで大阪のマンマたちなら飴を出すのかもしれないが、持っていない。


「お肴に…」
私は、例の居酒屋の友達のおじいちゃん(元造園業の社長で、池坊のいけばなもよくする。競艇場帰りにしか見えないが生き仏みたいな人。歩いてると初見の犬や野鳥まで寄ってくる)に褒めてもらった、我流のいけばなや、神社や道端の草花、生き物などのスナップを、ざざっとスマホでお見せした。


彼の目が、さっきのボトルの知らない言語を読む時みたいに光っていた。
見せ終わると、急に恥ずかしくなって頭を下げた。


ところが彼は、では僕も、とうれしそうにスマホを取り出した。
彼の年頃の宝ものなら、お孫さん…それとも小さな犬…鉢植えのサボテン群、それとも細かく作り上げたさまざまな細工物…


画面に現れたのは、想像したどんなものとも違った。
美しい、大きな、蝶。
オレンジ、茶色、青、虹、あらゆる模様。
蝶々たちは、そのスマホを載せているしわの寄った手のひらに、うっとりと止まっている。


驚いて、訊いた。
「綺麗!!こんなに!?飼ってらっしゃるんですか?」
彼は少し困ったように、言った。
「うん、勝手に入ってきちゃうから」
「は?」



素人の私にだって、それらがこんなビルだらけの都会でホイホイ捕まることがないのは分かるし、中には多分、種として希少なものもいたと記憶している。
そして、この品のいい老人が、虫取り網を持って走り回ることはもっと考えにくい。
ましてや、高層マンションの一室に、これほどの蝶が、勝手に入ってくるなんてこと、あるだろうか?


「窓を開けてたらね。入ってきちゃうんだ。毎年ね。で、寒いとかわいそうだから冬はあったかくして、砂糖水置いといてあげるだけ」
「どれくらい、いるんですか」
「五十くらいかなだいたい。多い時はもっと」
「五十?」


塔のように高いマンションならたくさんある。そこには一棟だけでも何百も窓があり、その一つの窓だけに毎年何十も入ってくる、都会ではまずお目にかかれない蝶々ですって?


「どれくらい、生きるんですか」
「だいたい1週間くらいだけど、長いのはひと月生きた子もいるよ」
そう言って、まるで本当に孫たちを眺めるようなまなざしで…


どの蝶も、腕や、手のひらに、ねえ、ねえ、というように大きく翅をひらいて止まっている。
私も、だんだん、うれしくなってきた。
「うふふ、みんな、甘えん坊さんなんですねえ」
「ウン。そうなんだよ」


私は教えられたワインを、たまに買うようになったが、その後何度行っても、あの老紳士に会うことはなかった。

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