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Sweet Pain

『鬼滅の刃無限列車』の放送を昨夜観た。
ファーストシーズンだけしか知らず、前知識なしの初見。


ファーストシーズンを観た時、哀れと恐れに満ち溢れているお話だとは思った。鬼に殺される人も、鬼を憎み倒す人も、鬼になった元・人も。
だから辛くて以降見るのをやめてしまった。


この映画も、哀れと恐れに満ちている。
極端なモノというのはそもそも、それの化身だ。恐れるものも殺すものも。
悲しみと恐怖を基本怒りや憎しみで打ち負かそうとするのが鬼殺隊、悲しみと恐怖に喰われたのが鬼。みな、極端に描かれている。


ゆえに唯一、慈悲の心を持つ炭治郎と禰󠄀豆子が際立つのだろう。
発狂して当然の逆境でも、無差別とも言える憐れみを失わない。


打つ、傷つける、憎み蔑み、殺す。
実は私たちがレベルや意識の差こそあれ、日常行っていること。
その表現をああして派手にどぎつくすると、その「技」や「かたち」や「悪い奴をやっつけるのは当然で正しい」「強さは善」という表層的なことに目はいく。刀や衣装のグッズがバカ売れしたのも覚えている。



でも。
メインはなんなのか?
と訊かれたら、憐れみをなくしたらおしまいだということだ、と感じる。
どんな嫌われ者やみにくい敵にすら優しい思いやりの心をかけることができるものが、本当に強いものだということ。というのが、物語の真意だと勝手に思っている。


悲しみや痛みは辛い。避け、排除したい。避け排除するためならどんな酷いことでもするというのでは「鬼」と変わらない。そもそも鬼は外から来るのではなくヒトの心に生ずることもきちんと描かれている。その鬼の悲しみと絶望も。喜びやしあわせ、希望があって、それを奪われたから鬼になってしまったことも。
そんな風にはなるなよ、という話のはずだ。
心配なのは、「打てばいい倒せばいい、それがカッコいいんだし正義だ」としか感じ取れない人が多くいたら、やだなってことだ。


鬼が死ぬ(消える)時、いつもそうしてしまうように、画面に語りかける。
大丈夫。いいこ、いいこ。怖くないよ、大丈夫。もういいのよ。やさしいこ。恐かったね。つらかったろ。寂しかったろ。
もういいんだよ。休みなさい。


もし子どもを持てていたとしたら、きっとそれしか私に言えることはない。
私もえらいことなんか何もない。欠点の方が多い。
だから分かるよ。
おまえがどんな子でも、たとえ鬼・夜叉と呼ばれようと、おまえは優しいいい子だよ。大丈夫。心配しないでね。
だってあなたはいい子だもの。信じている。


この物語の本質はそれだと、やっと感じることができた。
闘うのなら「己の中の」鬼と。それにはどんな武器もいらない。
ただ、痛みはある。
好もしい人が傷つき死ぬのは、誰だってつらい。泣いてしまう。鬼だって可哀想だ。
泣くのはだけど、今回我慢しなかった。
泣くことを恐れず泣きながら静かに観ていた。


痛みを感じていると、あ、と思う。
私の愛してきたひとたち、そして愛しているひとも、生き物も、おんなじように痛いよね?
するとどんな痛みも、そこで甘い淡雪のようにとけてしまう。
癒してあげたくなるから。
相手も同じ痛みを感じていることを感じる。同じ望みを持っているのも。そのひととの距離も時間も関係なく。


痛みさん、ありがとう。あのひとのこと、これで少し分かる。もし痛みがなければ、愛も憐れみもなかったんだ。愛と憐れみがなければこの世界は明日にでも滅ぶだろう。


ねえ愛するひと。
いいんだ、あなたのままで。
逢えてよかった。
もう後悔はない。
自由にこの世界を楽しんでね。
あなたがこの世界にいてくれてうれしい。
今日は休日、ゆっくり暖かく過ごしてね。

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