【嫌いなアイツとゾンビと俺と】第3話

 エレベーターホームの方を見ると、フラフラと白いシャツが汚れた男が歩いてくるところで、足取りがおぼつかないのが分かる。それを見て取った、女性が声を上げたようだった。隣にいた、同じ指輪を薬指に嵌めている青年が、慌てたように男に歩みよる。

 そして歩樹が見ている前で、男を支えた。周囲の視線もそちらに集中している。

 ――その瞬間だった。

 大きく口を開けた男が、青年の首元に噛みついた。
 何が起こったのか、歩樹には分からなかった。それから男が口を離すと、無言になった青年が、その場に倒れた。一瞬、その場の空気が凍り付いた。立ち止まった男、倒れ込んだ青年。歩樹同様、周囲も何が起きているのか、分からなかったのだろう。

「キャァァアアアア!」

 直後、恋人らしき女性が悲鳴を上げた。そして倒れ込んでいる青年に走り寄り、しゃがんで抱き起こす。青年は薄らと瞼を開いているものの、ぼんやりした様子で動かない。

「孝史、いや、孝史、起きて!」

 すると青年がゆらりと立ち上がった。その虚ろな目は、フラフラ歩いている男にそっくりだった。そのまま孝史と呼ばれた青年が、大きく口を開ける。唾液の線が歩樹にはよく見えた。ガブリ、と。青年は、女性の首元に噛みついた。女性が驚愕したように目を見開いている。その頃、ふらついていた男は、別の老婆に歩みより、その首筋にかぶりついた。

 女性は倒れ込んでいる。先程の青年と同じだ。老婆もすぐにそうなった。
 青年はよろよろと、立っている壮年男性へと近づいた。そして再び口を開けた時、壮年男性が、睨み付けるように顔を歪めて、青年を突き飛ばした。力の入らない様子の青年が、再び床に崩れ落ちる。結果――右腕が取れた。

「っ」

 その場には、腐臭が漂っている。それに歩樹が気づいた時、誰かが叫んだ。

「ゾンビだ!」

 言われてみれば、最初に来た男の顔は半分以上腐っている。
 騒然としたその場から、慌てたように多くの人間がエレベーターホールへと走る。

 方々で、悲鳴が上がっている。

 下の階に行くボタンを連打する者、隣の階段から走り降りていく者。
 混乱で、人の雪崩が起きかけている。歩樹は、唖然として、立ち尽くしていた。

「御神楽」
「あ……」

 名前を呼ばれて、漸く歩樹は我に返った。そして空斗を見れば、非常に険しい色を茶色の瞳に浮かべていた。

「真鍋……すぐに俺達も逃げないと」
「あちらは危険だ」
「で、でも……他にどうやって?」

 確かに四人に増えたゾンビは、エレベーターホールの方向へ、フラフラと向かっている。

「そこに従業員用の非常口と、その向こうに細い階段がある」
「そうなのか?」
「ああ。昔俺は、ここの雑貨店でバイトをしていたことがあるんだ。そちらの方が安全だ」
「わ、分かった」
「行くぞ」

 戸惑っていた歩樹の手首を、空斗がきつく握る。そして足早に非常口を目指して歩きはじめた。足がもつれそうになりながらも、歩樹は必死に着いていく。少し歩いてエレベーターホールとは逆の区画の非常口へとたどり着いた。

 ――関係者以外立ち入り禁止。

 そんな看板が出ていたが、気にした様子もなく、空斗がドアを開ける。
 そこで歩樹の手首をやっと離した空斗を、歩樹は見上げる。すると鋭い瞳と目が合った。そして空斗が小さく頷き、細い階段を駆け下り始めたので、歩樹も走る。

 走りながら、考える。
 ゾンビ……? と。そんな非科学的な存在が、この世にいるのか、と。
 だが、確かに鼻には腐った臭いが、まだ漂ってくる気がしていた。

 これが、序章だということを、この時の歩樹はまだ気がついていなかった。


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