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1年間マインドフルネスを続けて、ヴィパッサナー瞑想に挑戦することで、さらに沼っていく話。1年半続けたマインドフルネスを振り返ってみる。(4/4)

続きで、最後の投稿です。

1年間、マインドフルネスにむきあって、だいぶ様になってきました。そうした中で僕は、さらに沼っていくのです。

ヴィパッサナー瞑想への取り組み開始

さて、この1年間で取り組んできた瞑想は、サマタ瞑想と言われるものです。この瞑想は集中力を磨くための瞑想です。

それに対して、もう一つの瞑想があります。そればヴィパッサナー瞑想です。先の投稿にも少しだけ出てきました。ヴィパッサナー瞑想は、観察瞑想と言われていて、気づきの瞑想と称されています。

ひとつ前の投稿にでてきたオンライン受講の際にも、今後の目標としてヴィパッサナー瞑想をすすめられました。こうして、ヴィパッサナー瞑想に取り組み始めることで、沼っていくのです。

一年ぶりの真っ白状態

ここで瞑想は振り出しに戻ります。ヴィパッサナー瞑想というものを掴めなかったのです。ここから、またいろいろと調べることになります。とにかく瞑想をしていても観察するというのが、よく分かりませんでした。

仏教思想のゼロポイントとの出会い

この頃からマインドフルネス系のX(旧Twitter)アカウントをフォローして情報を集めます。その中で「ニー仏」さんという方のツイートをが気になりました。さらにニー仏さんのネットラジオを聞いて、かなり興味をいだいたのです。これがまた面白い。

このニー仏さんこそが、書籍「仏教思想のゼロポイント」を書かれた魚川祐二さんでした。こうして、「仏教思想のゼロポイント」を読むことで、ヴィパッサナー瞑想の理解も深まります。また、この書籍は、マインドフルネスにおける、いまの自分の指針となる書籍にもなりました。

なんとなくではありますが、手探りながらもヴィパッサナー瞑想のしっぽを捕まえた気分になりました。いまは不確かではありますが、ヴィパッサナー瞑想に取りかかれています。

仏教自体にガチで向き合いだす

この書籍によって、仏教の知識が不可欠という結論に至ります。

もともと、マインドフルネスを始めた時から、仏教に本格的に向き合うことは控えようと考えていました。もともとマインドフルネスは仏教から宗教性を排除して成立したものです。だからこそ、本当の意味での仏教徒ではない自分にとって、深追いになるだけなら不要と決めていたのです。

しかし、書籍を読むことによって、ヴィパッサナー瞑想をしていくためには、仏教の専門知識が不可欠という考えになります。

また、魚川さんの書籍の中で、瞑想修行におすすめされている場所が、ガチの仏教徒の方なのです。こうして、いまではプラユキ・ナラテボー師やアムボムッレ・スマナサーラ師の瞑想会に参加しています。

両氏とも非常に刺激的で面白い瞑想会でした。プラユキ師は、仏教知識や、瞑想を分かりやすく説明されて理解が促進されていくし、スマサナーラ師の瞑想会はテーラワーダの厳格さを肌身で感じれる貴重な体験でした。

ああ、マインドフルネスに沼っていく。

マインドフルネスの現在のポイント

そんなわけで、現在はヴィパッサナー瞑想に苦戦しながらも向き合っています。こういうなかで、最近は「マインドフルネス=いまここ」から「マインドフルネス=気づき」という理解に変わっています。

ヴィパッサナー瞑想を通じて、落ち着いて明晰な知恵を手に入れらるようになるのが、いまの目標です。なによりも「ビビらなくなるようになりたい」が目下の目標として取り組んでいます。

それと、瞑想するにはコンディションが大事だと思っています。ランニングをする前に二日酔いになるのはどうかと思いますよね?その感覚で、起床後の瞑想を万全の体調で取り組むために、お酒を飲むのも心なしか減っているような気がします。

後は、一週間くらいの期間がある、長期の瞑想リトリート(瞑想合宿)に参加したいです。しかし、寂しがり屋の嫁ちゃんを置き去りにしなければならず、説得するのがかなりの至難の業になっておりまして。なんとかしたいんですけんどね。

こうして、マインドフルネスを取り組んで1年半が経ちました。SIYでも「瞑想をするときは、瞑想をしている状態に興味を持って取り組むように」と言われました。これからも、瞑想という心の中の旅を興味を持って続けたいと思います。



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