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渡し守 第七話

【第七話】 夜


 川面に吹き渡っていた風の勢いが衰えた。青空が覗いて明るかった空は、今度は一転して暗くなっていった。雲がさしかかってきたせいではない。全天が少しずつ光を失い、辺りがゆっくりと闇に包まれていく。私にとって初めての夜。自分が闇に沈み融け込んでいくのを、とても不思議な気持ちで味わっていた。突然、横で大きな声が響いた。

「怖い!」
「え?」
「何も見えない。何も聞こえない。何もない!」
「そうですか?」

 のぞみさんが、私の胸にしがみついてくる。私は腕をのぞみさんの肩に回した。

「わたるさんは、怖くないの?」
「怖くないですね」
「どうして?」
「私には初めての経験ですから。闇も、それに閉ざされた世界も」
「あなたは、ニンゲンじゃないものね」
「それは、のぞみさん、あなたもですよ」
「……。じゃあ、なぜわたしはこんなに恐ろしいの?」
「そうですね。それは、あなたが神納さんの心を継いだからでしょう」
「心を……継いだ?」
「ええ。だからこそ、あなたはここにいるし、私もこうしてここに在る」

 肩を抱きすくめていた手を放して、のぞみさんに声を掛けた。

「横になりませんか?」

 二人並んで土手に仰向けになり、漆黒の闇を見上げる。

「私はね。さっきのぞみさんの話を聞いている時に、一つだけすごく強い疑問を持ったんです」
「疑問?」
「そう。疑問」
「どんな?」
「ニンゲンは、肉体も心も弱い存在のはずなのに、どうして死をこんなに静かに受け入れるのだろうって。みんな、生き延びるために方舟に乗ったのに」
「うん」
「いくら神納さんが優秀なプログラムを書いたにしても、死はその人たちの終わりのはずです。冷静でなんていられるはずがない。たとえ夢の中であったにせよ、ね。でもここに来た人たちは、みんなすでに死を覚悟していた。とっても奇妙です」
「奇妙、かあ」
「ずっとそのわけを考えていて、私やのぞみさんのことを振り返った時に気がついたんですよ」
「何に?」

 のぞみさんの声に強い困惑のトーンが混じっている。それを振り払うようにきっぱり言い切った。

「肉体の死と、心の死は違うってことを」
「違う?」
「そう。死んだ肉体が蘇生できないことは事実です。だからみんな死を怖れる。でも肉体を失った後、心まで失われてしまうかどうかは誰にも分からない。それは科学が、コンピュータがどんなに発達しても分からない。もちろん、私にものぞみさんにも分からない」
「……そうだね」
「ここに来たたくさんの人たちは、向こう岸の世界に心の存続を託したのでしょう。死によって私たちの全てが失われるわけではない。私たちはこれで終わりではないんだって。それが希望。絶対に否定することも消すこともできない光」

 のぞみさんが、ふっと体を起こした。闇の中では姿も表情も見る事が出来ないけれど、まとっていた雰囲気の変化はわかる。
 闇の中に、か細いけれど落ち着いた声が流れた。

「そうか。わたしたちは本当は誰かの夢の中に創られた存在だったはず。でも、夢を見る人が誰もいなくなっても、わたしたちはここに在る。じゃあ、夢を見ているのは……」
「そう、のぞみさん、あなた自身ですよね。夢を見せるプログラム自体が見る夢。でも機械としてのプログラムはすでに停止しているんです。それはのぞみさん自身がよくご存知のはず。だからのぞみさんの見ている夢は、もう夢じゃない。心そのものでしょう。神納さんが願ったように、全ての束縛を離れて自由にのびのびと世界を創れる……そういう存在として。希望として。あなたはここに在る」
「じゃあ、あなたはなぜここにいるの?」
「それは私には分かりませんが……。役目を終えて消えるはずだった私が残っているのは、のぞみさんが私の存続を望んだからか私がここに残りたいと思ったからでしょう。私は、その両方が合わさった結果じゃないかと思いますが」
「ふーん」

 のぞみさんが口を閉ざすと全ての音が消え去り、何もかもがすっぽり闇と虚無に包まれる。私ものぞみさんも再び仰向けになり、深いけれど優しい闇の底で黙し続けた。夜を怖がっていたはずののぞみさんは、私の右手をおもちゃにしてずっともてあそんでいた。


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