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カインとアベル

人は年齢を重ねる事に成長していくはずだと思うかもしれないが、私は若い頃の自分より劣っていると思う部分がある。ダメではないか。
特に自由に使える時間が存分にあった頃は、ネットサーフィンにも耽溺していたけれど、本をよく読んでいたと我ながら思う。本の世界には、今まで触れてきたどのメディアよりも、懐が深く、そして、この世の真理をついたものがたくさんあると思っていて、若く未熟な自分の足りない部分を補う方法がそこで見つけられるのではないかと、とにかく一心不乱に読みふけっていた時期だったのだと、後付けの理由かもしれないが思う。

その頃読んでいた本を、たまに、本棚からひっぱりだして読んでみると、「よくこんな内容の本を読んでいたな」と、我ながらちょっと誉めてあげたくなる時がある。そんなことを思い出した一冊で、ロシアの文豪トルストイの『光あるうち光の中を歩め 』を若い頃読んでいた。
こんな本をよく読んでいたなと思うと同時に、このようなタイトルだから、自分の欠けたところを満たすことに飢えていた若い自分は惹かれたのかもしれないとも思うし、そしてまた、このような自身の葛藤や信仰を主軸にしたある種理想主義な物語を読みふけっていた過去の自分の感性と現世にどっぷりとつかり俗にまみれた今の自分の感性を比べて、どこか自分が退化してしまったのではないかという憂いの気持ちが芽生えることも何度かあった。

世の中に単身出るという事は、己の主張を曲げて融通を利かせるときもある。しかも、周りの人に迎合して、自分を殺すような場面もある。私の考えがまったく正しいというわけでもないし、相手の意見を尊重することも大事なことだと思う。しかし、自分の中でどうにも承服できないこと、自分の思う正しさから大きく外れていること、これを認めてしまったら自分の中の何かが壊れてしまうのではないかと思うことを、他者がいとも容易くやっていて、その仲間に誘われるような場面に出くわすことが何度かある。実際私は思い出せるだけでも何度かあった。
そんなとき、私は自分の心に若い頃の自分を召喚する。若い頃の私は、若い人特有の潔癖かもしれないが、不正や不純に手厳しい輩だったと我ながら思う。その頃の私から見て、現在の自分はどのように見えるのだろうかと考える。「それを認めてしまったら、過去のお前自身があんなに忌み嫌っていた、憎むべきどうしようもない奴に成り下がってしまうんじゃないのか。お前はそんな自分を肯定できるのか」と、自分が間違っていると思う方向へ足を向けている自分自身に厳しい一言を言われ(せ)、変な道へ進むのを思いとどまっていた。
これはだいぶ理想主義な話かもしれない。今までの人生で、いつでも間違っていない選択をしているかと問われると自信はないが、自分の心の中の善悪を区別するシグナルには常に気付くことは可能だとも思う。

かなり観念的な話になってしまったが、私だけの話ではなく、それぞれ各人の心の中に正しいと信じるものがいくつかあると思う。それを譲ってしまったら、自分の核が無くなってしまうという大切なもの。
それだけは、決して譲らずに貫き通して死んでいけたら、例え周囲からどんなに悲惨で陰鬱な人生に見えても、その人生はとても美しく意味があるものなのではないかと思う。(そんな理想主義な自分を、いつまでも心の中に飼っていたいとも。)

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